本誌記者 呂 翎
員宗翰さん
「秦(前221-前206)の時代に形成し、漢(前206-220)の時代に発展をとげ、隋(581-618)の時代に栄え、唐(618-907)の時代に完ぺきなものとなり、明(1368-1644)の時代に伝播され、清(1616-1911)の時代に大いにはやり、何回かの発展・変化を経て、盛観を呈するものとなり、中国の国劇ともいわれる京劇のルーツともいわれ、厳然と独立した、消し去ることのできない価値を持つものである」と王紹猷さんが文章の中でこう形容しているものは、別に京劇などの中国の人たちが誰でもよく知っている伝統演劇ではなく、千百年以前から中国北西部の果てしない大地に広く伝わってきた秦腔(陝西省・甘粛省の地域の地方芝居)である。
1940年の旧暦1月2日に生まれた員宗翰さんは、2010年の春節(旧暦の正月)に70歳の誕生日を迎える。新中国の秦腔という伝統演劇芸術の最も傑出した演技者、芸術家の1人として、その秦腔芸術との切り離すことのできない縁も、すでに約60年間の軌跡を刻むものとなった。
秦腔はかなり古い伝統演劇で、古代の陝西、甘粛一帯の民間の歌と踊りをルーツとし、中国古代の政治、経済、文化の中心地長安(今の西安市)で成長をとげ、それぞれの時代の人々の創造を経て次第に完ぺきなものとなった。大昔から関中地域(陝西省の秦嶺北麓の渭川の沖積平原一帯のこと)は昔から「秦」と称されてきたため、その一帯の地方芝居も秦腔と名付けられた。
員宗翰さんは西安から25キロ離れた咸陽(咸陽市は中国の歴史上初めての封建王朝秦朝の都であった)に生まれ、彼の話によれば、自分は兵馬俑などの出土文物と同じように「骨董」だ、ということである。
員宗翰さんは幼い頃から秦腔芸術をこころから愛してきた。5、6歳の頃、夜になるといつも一人でこっそりと家を出て芝居を見に行った。その時、どこで秦腔の芝居の公演があるということを探りあてさえすれば、必ず毎日見に行った。家が貧しく、入場券を買うおカネがなかったため、彼はこっそりと大人の後についてもぐり込むほかなかった。このようにして、小さな員宗翰さんは秦腔の伝統演劇芸術に夢中になった。
1952年の小学校卒業後、家計を助け、同時に自分の食費を稼ぐために、員宗翰さんの父親は彼に何か技能を習いに行かせようとした。最初、父親は彼を西安の風呂屋の知り合いの見習い、手伝い人になり、入浴者のアカを落とす仕事につかせようとしたが、しかし員宗翰さんはきっぱりと断わった。その後またいくつかのその他の仕事も探したが、しかし員さんはどれも興味がわかなかった。父親はおまえはいったい何をやりたいのかと不思議に思い、聞きただした。
「私はなにもやりたくなく、芝居しか興味がない」と、わずか12歳であった員さんはきっぱりと答えた。
当時の西安には三大「戯班」(伝統芝居の小劇団・昔の日本の「座」のようなもの)――易俗社、三意社、尚友社があった。員宗翰さんは董瑞生という人の引きで、三意社(今の第二秦腔劇団)で秦腔の演技を学ぶことになった。面接試験の時に、このようなエピソードがあった。当時、面接試験を担当した先生たちは員宗翰さんのノドの発音の音色と基本技能を観察し、育成するに値するかどうかを評価するため、彼に芝居の一くさりを選んでその場で演じさせた。ところがどうか、生まれたばかりの子牛は虎をも恐れずといわれるように、彼は『折桂斧』(のちに『柴刈りで弟を勧める』に改名された。大まかなストーリーは、程氏兄弟二人は両親が亡くなったため、兄の程熊が山に行って柴を刈ることで弟の学費を稼ぎ、弟は兄の毎日の苦労を見るに忍ばず、学業を放棄しようとしたが、兄の勧めのもとで弟は学業を続けることにし、そして柴を刈る斧に『折桂斧』〔官吏試験に合格させることができる斧という意味〕と名付けたというものである)の一くさりを歌った。この芝居は三意社社長の蘇育民先生の得意芸であった。「三意社を初めて訪問した際に『折桂斧』の唱(うた)を歌う勇気があり、この子供は声はすばらしいばかりでなく、度胸もかなりある!」と先生たちはしきりにほめた。
三意社で、員宗翰さんは主に老生(中老年の役を演じる役柄)を専攻し、著名な芸人の張朝鍳、李天堂、李慶増らを師として仰ぎ、しかも蘇育民、封至模などの芸術家たちの心のこもった教育を受けた。「先生が学校の中に導き、勉強のよしあしは個人次第」ということわざを座右の銘としてきた。当時、勉強の条件もよくなく、員宗翰さんは一年じゅう庭で稽古をしていた。夏は猛暑の日差し、冬は吹雪の中で稽古を続け、それは彼のその後の芸の成長のために確固とした基礎を打ち固めた。三意社に入って芝居の演技を学ぶことになってから半年以後、員宗翰さんは舞台にあがって芝居を演じることになった。最初の芝居は『蘇武廟』であり、続いてまた『ヒツジを放牧する蘇武』、『穆柯寨』(宋の時代に女性英雄穆桂英と楊宗保の恋物語)、『四人の進士(封建時代に官吏募集試験の殿試に合格した人)』などの芝居を演じた。
|