兵馬俑一号坑の第3次発掘
チームの「紅い花」
許さんは北京生まれ。89年に吉林大学考古学部を卒業した。考古学を志したのは、著名な考古学の専門家である夏鼐氏と多少ゆかりがある。
夏氏は85年6月19日に亡くなったが、その後、氏の事績を紹介する記事が相次いだ。そのころ彼女は大学受験の準備をしていた。よく新聞を見ていた彼女は感動し、「夏先生は名前が学問的であるだけでなく、従事している仕事もあのように文化的なので、わたしも考古学を選択する」ことにした。そんなわけで、吉林大学考古学部に北京の娘さんが加わった。
勉学の合間には、彼女はその後の「天に蚊帳を吊り、地にむしろを敷く」野外生活に思いを馳せ、小さなスコップで、古代の神秘的なベールを開いた時の喜びを想像していた。
卒業後、許さんは臨潼に。ちょうど秦俑博物館の拡張工事がピークを迎えた時期で、兵马俑二号坑の遺跡は発掘を進めながら対外開放されていた。袁仲氏ら先輩の指導を受けながら、彼女は二号坑の発掘作業に参加した。
チームを統率して一号坑の第3次発掘を行ったことは、許さの考古学事業で「最高峰」そのものだと言う人がいた。だが彼女は、「最高峰」が指すのは兵马俑自身の価値と地位であり、自分がどんな輝かしい仕事が出来るかということではない、と話す。彼女にとっては、野外での考古学的生活がより魅力的なのだ。
兵马俑の発掘を正規軍の戦いと比較すれば、野外での考古学はゲリラ戦と言えるだろう。「考古学者にとって多くの場合、ゲリラ戦は刺激になります。刺激があれば、力が出てきます」。彼女は冗談交じりにこう話す。
「兵马俑で目にする、そして発掘された文化財の時代と用途はいずれも比較的単一的ですが、野外では、異なる時代、異なる層の物を掘り当てることができ、そのすべての過程はまるで1冊の通史を読んでいるような感じがします」。さらに許さんは「一号坑全体の大枠がほぼ確定されたことで、日常の発掘作業で驚きや意外なことにぶつかるケースは少なくなりました。こうした淡々とした日々にうっとうしさを感じて、思わず川で魚を釣ったり、お酒を大飲みしたりする日々を想像することもよくあります」
許さんは06年6月、「南水北調」(南方の水を北方に送る)プロジェクトの中央ライン建設現場に位置する文化財を保護する考古学チームに参加し隊長を務めた。当時の野外での食事、就寝の日々を振り返り、「唯一の女性として、チーム全体に喜びをもたらした一方で、不便をかけてしまいました。例えば毎晩、トイレに行ったり水を浴びたりする場合には、「使用中」の札を掛けなければならず、熱い夜でも服は脱げませんでした」
だが、どこに身を置こうと、20年がすでに過ぎても、やはり当初のごとく、考古学の発掘が彼女の最も愛するものである。
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