本誌記者 王文捷
江清良氏
学生から軍人になるまで――天安門前で歩哨に立ち、鴨緑江の岸辺で体を洗い、地球儀を背負って山々を駆けめぐり、古希になってパソコンを……。江清良氏はブログでこう自己紹介している。内容は単純だが実に風趣に富む。今年80歳。精神力旺盛、健脚だ。
江氏の作業室。家族が特別に用意した小さな寝室に足を踏み入れると、主人が古希を迎えた老人であるとは想像もつかない。パソコンにスキャナ、何本ものデータ線、積み重なるハードディスク、何台もの撮影機材……。最も目を引かれたのはもちろん、幾つもある大きな棚に一杯に並ぶファイルホルダーだ。
「以前に撮った古い写真です」。江老人はややまだら模様になったホルダーを指差しながら笑った。「一部はパソコンにスキャンしましたが、それでも、数が非常に多すぎて。この仕事は、息子や孫に引き継がせなければならないでしょう」
写真に見る物語
江氏は1934年の生まれ。生粋のアモイ人と言っていいだろう。「私はこの一生を実にはっきりと記憶しています。小学時代ですが、アモイの党の地下組織に手紙を送ったことがあります。ずっと参軍したいと思っていたからでした。しかし、母はどうしても賛成してくれません。でも後に、ようやく思いがかなって1954年、中国人民解放軍の第31集団軍に参加することができました。転職後、アモイで測量の仕事に従事することになり、地球儀を背にあちこちを走り回ったものです」。仕事の必要から、また写真に対する興味と生活への熱い気持ちからか、江氏はアモイの長年にわたる発展と変遷をフィルムに収めてきた。その数々の古い写真、都市の記憶をどれほど伝えているのだろう。
「以前、デジカメはなく、誰もがフィルムで写真を撮っていました。それが、今では科学技術の発達で、撮ったらすぐにパソコンに入力できます。実際、あの時代、フィルムを買えたとしても、現像は高くてできませんでした。改革開放の初期、現像代は3.3センチ四方の写真1枚で6角。現在はもっと高いですが、当時の月給は80元しかありませんでした」。江氏が撮影した写真は多く、使用したカメラも多い。30台近くを数え、60年代の古いカメラもあれば、最新のデジタル一眼レフも。ただ、大半は改革開放後に収入が徐々に増えていった時期に購入したものだという。
「写真を正式に撮り始め、都市の変化に格別の関心を寄せるようになったのは、人民防衛の仕事に移ってからのことです」。そう話しながらパソコンを開き、記者に自信作を見せてくれた。スキャンした古い写真は、黄ばんだり、ぼんやりしたりしていたが、1つの時代の変遷と忘れがたき物語を静かに物語っている。
「これは97年の海滄大橋建設の場面、そばにある1枚は、大橋の緑化作業の様子を撮ったものです」。写真を指差しながら説明し、思いは10数年前の世界へ。「99年12月30日に行われた列車の開通式典です。実に壮観です。海滄大橋はアモイ西港の中部に位置し、同市の交通プロジェクトで投資規模最大。全長5926メートル。「東に架かる飛ぶ虹」と言われている。アモイ島を出る第2のアクセス、また新しい観光名所でもある。
「84年、鐘鼓トンネルの試験的開通時の写真です。当時、私は撮影・記録を担当、赤い布地の上の字は私が書いたものです」。江老人は別の写真を取り出した。鐘鼓トンネルはアモイ最初のトンネルで、全長1161メートル。過去10数年の間、市はトンネルの建設に全力を挙げてきた。多くの工事が国内最高水準だった。島を出る「命のゲート」の仙岳山トンネルにしろ、湾曲の半径が全国最小の山岳トンネル・国際観光埠頭専用道路にしろ、全国の都市で最長のトンネルである梧村山トンネル、建設中の中国最初の海底トンネルである翔安トンネルにしろ、それぞれに特色があり、これによりアモイの交通はより至便、よりスムーズになった。
「これはアモイ華僑大厦で、改革開放の東の風を最も早く受けたところです。これは国際コンベンションセンターの工事現場。そのころちょうど、第4回投資相談会を迎えようとしていました。これはかつての厝安造船所で、当時はまだ有名な環島路の建設は始まっていません。この場所は担水巷と呼ばれています。水道がない前、水は船で運ばれた後、人々が担いでいました。油葱糖巻薄餅。アモイで一番有名な、小麦粉を練ってネギを入れて焼いた軽食です。懐かしい道端の床屋さんです。すでに見られなくなりました……」。古い写真を見ながら、江氏はいつまでも物語を語る。写真には仕事への様々な懐かしい思いと、この都市の記憶が含まれているからだ。
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