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ハルビン
【人々】ある街頭画家の芸術人生

 

本誌記者 陳 ラン

 香港歌謡界の四天王の1人、劉徳華(アンディ・ラウ)、サッカー界の超人気者、デビッド・ベッカム、台湾歌謡界の新しいスーパースター、周傑倫(ジェイ・チョウ)……A4サイズのビニールパウチに入ったスターたちのスケッチ像が上下2列に並んで地面に置かれている。2列に並ぶスケッチの間には、ところどころ錆(さ)びついた鉄製のイーゼルが立つ。イーゼルの後ろには、厚手のクッションが置かれた折り畳み椅子。座面カバーで覆われたもう1つの折り畳み椅子は、イーゼルの正面、下の列のスケッチの傍らにある。そして、イーゼルの上にはA3大のカラーの肖像画が固定されている。肖像画の男性は50歳前後、長い顔に長い髪、頬にはヒゲを生やし、鋭い目つきの厳かな風貌には年輪が刻まれている。「自画像」と名づけられたこの絵の左下隅にはクリップで挟まれた身分証明カード、そこには次の文字が書かれている。「宋大方、ハルビン中央大街肖像芸術画廊、画家証番号07」。

「ほんとうにソックリ!」。スターのスケッチの前で足を止めた客から賛嘆の声が上がる。 

「どうぞ。1枚描きましょう!」イーゼルの後ろに座る宋さんがややかすれた声で微笑みながら言う。「ほんの10数分ですよ」。 

客は笑いながら、好意的に頭を振って立ち去る。 

「見ていく人は多いが、描かせてくれる人は少ない。もう慣れたから、どうってことはない」。宋さんは両手を胸の前で組み、あっさりと笑う。

<芸術をメシの種に?>  

1957年生まれの宋さんは生粋のハルビンっ子。幼いころから絵を描くことが大好きだった。だが、この趣味は、正業にはならないとして、両親からは退けられた。宋大方さんの幼年時代はちょうど、中国が重工業に力を入れていたときだ。理数系を学んでおけば世の中怖くないという意識が、機械技師だった父親と会計士だった母親の世代の人々には根強くあった。「芸術でメシは食えない」。宋さんが学校に上がったあと、最もよく聞かされた言葉だ。 幸いなことに、学校の美術教師が彼の絵の才能を発見し、子どもたちの課外活動のために設けられた教育施設である少年宮に彼を送りこんだ。専門の教師について、宋大方少年の技術は飛躍的に伸びた。両親も、当初の反対の姿勢から徐々に支持する方向へと変わっていった。1970年、中学校に入って間もない宋少年は、絵画という特技のおかげで学校の宣伝隊に選ばれ、宣伝画の制作を任された。 1975年、国の呼びかけに応え、宋さんは、農山村の現実生活を体験しに行く「下放知識青年」として牡丹江寧安農場に赴き、そこで4年間を過ごすことになった。だが、彼の特技はここで埋没しなかったばかりか、ほかの才能までが花開いたのだ。最初の年、彼は元の仕事である宣伝画制作を任され、さらに個人の絵画展も催した。続く3年間、農場学校で教師となった彼が教えた教科は、数学、国語、美術、体育で、使われないまま放置されていた足踏みオルガンでさえも彼の手にかかると、それらしく弾かれるのだった。 1979年、宋さんはハルビンに戻る。1981年に大学入試に失敗したあと、母の職場を引き継ぎ、東北の内陸河川で最大の港であるハルビン港で警備科の仕事に就き、港の貨物の監視・管理を任される。 「農場にいたころは、早くハルビンに帰りたかった。仕事の内容は考えてもみなかったし、選べもしなかった」と言う宋さんは、笑いながら「あのころは、父が言ってたように、“芸術でメシは食えない”時代だった」と続けた。

 

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