1980年代
1980年5月、華国鋒総理が日本を訪問した。これは中国総理の初訪日。7月8日、 華国鋒総理は故大平総理葬儀のため訪日した。
1982年5月、趙紫陽総理が日本を訪問し、「平和友好、平等互恵、長期安定」との中日関係三原則を提示した。
1982年6月 日本文部省が教科書検定において中国侵略の歴史を歪曲し、第一回教科書問題を引き起こした。
1982年9月、鈴木善幸日本国総理大臣が中国を訪問した。
1983年11月、胡耀邦総書記が日本を訪問した。
1984年3月、中曽根康弘日本国総理大臣が中国を訪問し、中国に第2次円借款の提供を決定した。
1984年9月、「中日友好21世紀委員会」第1回会議が東京で開催された。
1984年9月、日本青年3000人が招きに応じて中国を訪問した。
1985年4月、彭真全人代委員長が日本を訪問した。
1986年11月、中曽根康弘日本国総理大臣が訪中し、鄧小平氏と会談した。
1988年8月、竹下登日本国総理大臣が中国を訪問した。
1989年2月、銭其琛中国外交部部長が中国国家主席特使として日本に赴き、昭和天皇陛下の大葬の礼に出席した。
1989年4月、李鵬総理が日本を訪問した。
1989年7月 日本を含め西側諸国が中国に対して経済制裁に踏み切った。日本は第3次円借款を凍結し、政府ハイレベルの往来を中断した。
1990年代
1990年8月 桜内義雄衆議院議長が中国を訪問した。
1990年11月、呉学謙副総理が日本に赴き、日本の明仁天皇陛下の即位式典に出席した。
1991年8月、海部俊樹日本国総理大臣が訪中した。
1992年4月、江沢民総書記が日本を訪問した。
1992年5月、万里全人代委員長が日本を訪問した。
1992年10月、日本の明仁天皇陛下と美智子皇后陛下が中国を訪問した。
1993年11日、江沢民主席はシアトルでアジア太平洋経済協力会議(APEC)に出席した際、細川護煕日本首相と会見した。
1994年2月、朱鎔基副総理が日本を訪問した。
1994年3月、細川護煕日本国総理大臣が中国を訪問し、両国政府は環境保全協定に調印した。
1994年8月、土井多賀子日本衆議院議長が訪中し、天津抗日殉難烈士記念館に赴いて抗日戦争期に日本で亡くなった中国人労働者の霊を弔った。
1994年10月、栄毅仁国家副主席が日本を訪問した。
1995年4月、喬石全人代委員長が日本を訪問した。
1995年5月、村山富市日本国総理大臣が中国を訪問し、戦後の日本の在職総理大臣として初めて盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館を見学した。
1995年8月、村山富市日本国総理大臣は戦後50周年にあたり、日本政府を代表し、歴史問題について談話を発表し、歴史を直視し、侵略を認めるべきであるとはっきりと表明するとともに、それに対し深い反省と謝罪の意を表した。
1995年8月、日本政府は中国の核実験に抗議して無償資金援助の凍結を通告した。
1995年11月、江沢民国家主席は日本に赴いてAPEC会議に出席した際、村山富市日本国総理大臣と会見した。
1996年11月、江沢民国家主席はマニラで開かれたAPEC会議に出席した際、橋本龍太郎日本国総理大臣と会見した。
1997年9月、橋本龍太郎日本国総理大臣が中国を訪問し、瀋陽付近の「9・18」記念館を見学した。
1997年11月、李鵬総理が日本を訪問し、「①相互尊重、相互内政不干渉②求同存異、相違点の適切な解决③対話強化、相互理解の増進④互利互惠、経済協力発展⑤未来へ目を向け、子々孫々にわたる友好を実現」の中日関係を発展させる五原則を提出した。
1998年4月、胡錦涛副主席が日本を訪問し、中日関係は歴史を鑑として未来へ目を向けなければならないと強調した。
1998年11月、江沢民主席、日本を正式訪問し、中国国家元首として初めての日本訪問となる。両国は中日共同宣言を発表し、「平和と発展の友好協力パートナーシップ関係に力を注ぐ」ことを宣言した。
1999年7月、 中日文化交流協定締結20周年と中国建国50周年を記念し、中日両国は「1999中日文化友好年」活動を共同展開した。
1999年7月、小渕恵三日本国総理大臣が中国を訪問した。
1999年12月、李瑞環中共中央政治局常務委員・全国政治協商会議主席の李瑞環が日本を友好訪問した。
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