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北京週報が報道した共和国の誕生日
社会主義のみが中国を救う

許徳珩

中華人民共和国成立三十周年にあたり、本誌は知名人数氏に感想を寄せていただいた。つぎの文章はその第一編である。

―編集部

わたしは今年九十歳で、そのうち新中国が成立してからが三十年、解放まえが六十年という勘定になる。むかしの中国はまったくこの世の地獄で、思いだしたくもないくらいである。わたしの少年の頃、一九〇四―一九〇五年に日本とロシアが中国の国土で戦火を交えたが、当時の中国政府は中立政策を宣言して、知らぬふりをした。清朝の実権を握っていた西太后は国土がじゅうりんされ、人民が虐殺されるがままに任せ、北京から二五〇キロ離れた承徳の避暑山荘に難を避け、贅沢三昧の日々を送った。

西太后から蔣介石に至る中国の支配者は、いずれも一つ穴のムジナで、外国を恐れ外国にへつらい、国家権益を手放す軟弱振りを示しながら、人民を虫けらのようにあつかった。外国人は中国国土に租界をもち、治外法権の特権を享受していた。当時、封建軍閥や官僚買弁は帝国主義と手を握り、人民の頭上にあぐらをかき威ばりくさっていた。抑圧があれば反抗は避けがたく、民衆は間断なく反帝•反封建の闘争をすすめた。清朝の末期、わたしが中学生のころ、わたしの故郷江西省九江県で外国人がひとりの中国人を殺す事件が起こり、民衆の怒りをかった。当時の九江県県長江紹棠は、この外国人を処刑したかどにより罷免されたばかりでなく、都からやって来た勅使によって斬首された。半封建•半植民地時代の中国では、高官が外国人を恐れ、外国人は民衆を恐れたものである。

中国人民の反帝•反封建の闘争は連綿として続いたが、プロレタリア政党の指導がなく、社会主義の方向がなかったので、いつも真の勝利をかちとることができなかった。ロシア十月革命が起こってからやっと、中国革命の偉大な先駆者李大釗同志が「庶民の勝利」、「ボリシェビズムの勝利」というすぐれた論文を発表、つづいて「五四」運動が起こり、それを境にして中国に新民主主義革命運動の大道が切りひらかれたのである。中国共産党と毛沢東同志の指導のもとに、中国人民はようやく帝国主義、封建主義、官僚買弁資本主義という三つの大きな山をくつがえし、ついに立ち上がった。社会主義改造と社会主義建設を通じ、貧しく立ちおくれ、深淵のふちにあった旧中国ははじめて、初歩的に繁栄隆盛した社会主義新中国に生まれ変わったのである。

新中国が成立して三十年、林彪や「四人組」の狂気じみた切り崩しで、活動面にあれこれの錯誤があったとはいえ、われわれは共産党と毛主席の指導のもとに、なお社会主義の工業体制をうち立て、農業生産のレベルを引きあげ、文化科学教育事業を発展させ、人民の生活を改善し、保証を与えている。これらすべては、旧社会では思いもよらぬことであった。

「五四」運動からこれまでに六十年がたっている。わたし個人はこの六十年間の歴史の証人として、前半の三十年と後半の三十年を比べて、社会主義の道をすすむことが中国の唯一の活路であると考えている。「五四」運動以後の、中国人民が社会主義の道を歩むことをはばむ主張や、十数年らい林彪、「四人組」がふりまいたエセ社会主義の極左理論は、いま、科学的社会主義の革命の奔流によって押し流されてしまった。

半世紀まえを思い起こすと、多くの中国青年がロシアの社会主義革命に傾倒していたものだ。わたしは「五四」運動で逮捕される前後、北京大学の社会主義研究グループの活動に参加していた。その後、フランスへ渡って苦学し、同地で周恩来、趙世炎、向警予、蔡和森、陳毅ら共産主義者の薫陶と影響をうけ、いよいよ深く認識するところがあった。即ち資本主義の道はダメで、改良主義も前途がない。中国人民は中国共産党にしたがって社会主義の道を歩んでこそ、はじめて人民民主主義を保証し、現代科学を振興し、救国救民に希望をもつことができる、というのがそれである。

中国の第二次国内革命戦争(一九二四―二七年)の時期、わたしはフランスから帰国し、黄埔軍官学校で政治担当教官を務めた。蔣介石が革命を裏切る前後、わたしは中国共産党への入党を求めたが、党組織から党外にあって仕事をした方が、多くの民主人士を結集するのに役立つから党外に残るよう説得された。

ところが、わたしのような者に対してさえ、反動派は迫害の手をゆるめなかった。わたしは積極的に抗日救国を宣伝したが、そのあげく救国救民は有罪であるとして、二回投獄され、二度家宅捜査、家屋の破壊という目にあい、三回も大学教授の職を追われた。一九三二年北京大学で教えていた折、蔣介石の甥で憲兵連隊長の蔣孝先が馬哲民、侯外廬とわたしの三教授をひそかに逮捕した。孫中山先生の未亡人宋慶齢や魯迅、蔡元培らが「民権保障同盟」の名で救援活動をすすめ、国民党反動派も共産党や人民大衆が巻きおこした抗日キャンペーンにおじけつき、わたしたちを人知れず処刑することをためらい、釈放を余儀なくされた。わたしが出獄するとき、反動派はもっともらしく一席設けて陳謝したが、わたしはテーブルをひっくり返してしまった。

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