本誌記者 徐 蓓
提灯(徐蓓 撮影)
装飾用の提灯を代々つくり続ける家に生まれた曹紅さんは、5歳のときから提灯づくりを学び始めた。だが、初めのうち彼女は、メディアに登場する職人たちが伝統工芸の伝承に固執するようには、それにこだわっているわけではなかった。それどころか、一度は伝統工芸から逃げ出し、ポケベル・オペレーターやスーパーの店員をやったことさえあった。だが、最終的に彼女は元の道に戻ることを選んだ。
この若さで提灯づくりを継承する彼女とその家族の物語は、古くシックな南京市内を流れる川・秦淮河のほとりを飾ってきた提灯の歴史を描き出すものだ。
<提灯職人の家に生まれて>
南京の人々で飾り提灯を知らぬ者はいない。秦淮の提灯は天下一品と讃えられ、春節(旧正月)のたびにさまざまな提灯が秦淮河を彩ってきた。孔子廟に飾られる提灯を見に行くことは、すでに南京市民の年越しに欠かせない行事となっている。そして、南京市民の間では「年越しに孔子廟の提灯を見なかったら、その年は無事に過ごせない」とも言われている。
秦淮提灯の制作技術は主に家庭で伝承されてきており、その主なものには「李氏提灯」、「陸氏提灯」、「曹氏提灯」、「成氏提灯」などがある。曹紅さんの家が代々伝えてきたのは名高い「曹氏提灯」だ。
「父の話では、父が子どものころはお爺さんが提灯をつくる姿をいつも見たそうだ。曹家の家系図によると、清の康煕年間にはすでに提灯づくりという技術職に従事する者がいた」と曹さんは紹介してくれた。そうは言っても、曹家の家族は提灯づくりで生計を立てていたわけではなかった。曹さんは「そのころ、私の曾祖父は雨花台近くに住む農民で、農作業の合間に提灯をつくっていた。農繁期のときもそうだった」と言う。
曹紅さんの祖父である曹正中さんは民国時代、祝いの席での提灯などの飾りつけを行っており、孔子廟では名を知られた人だった。そして曹紅さんの父親である曹真栄さんは、今でも秦淮工芸提灯協会の事務局長を務め、たびたび海外を訪問して提灯装飾のパフォーマンスを行っている。
<“習わせられた”提灯づくり>
曹紅さんは物心がついたときから家で提灯づくりを手伝ってきたという。70年代中ごろ、生活があまり楽ではなかったため、曹紅さんの父親は時間のあるときに提灯をつくって家計の足しにするようになり、曹紅さんは小さいころから父親の助手になってきたのだ。
家庭で薫陶を受けたものの、子どものころの曹紅さんは決して提灯づくりが好きだったわけではない。「あのころは大嫌いだった」と言う彼女は、「学校に上がったころ、一番イヤだったのはお休み。夏休みなど、ほかの友だちはみな遊んでいるのに、私は家で提灯づくりを手伝わなければならなかった。冬休みには他の友だちはみな両親と一緒に親戚回りをするのに、私は両親にくっついて提灯を売らなければならなかった」と打ち明ける。
<“逃げる”という選択>
恐らく子どものころ辛い思いをしたからだろう。1997年に家庭を持った曹紅さんは、提灯づくりという技術を放棄する道を選んだ。そして、当時、憧れの的であったポケットベルのオペレーター職を手に入れた。「当時、ポケベル業務は利益が上がっていた。普通なら500元か600元程度の月給が、私たちは2000元以上もらえた」と彼女は振り返る。数年後、ポケベルが次第に歴史の舞台から姿を消していくと、先見の明があった彼女は積極的に新しい道を探った。そのころ、南京にはスーパーマーケットが登場したばかりだった。そこで、彼女はスーパーの管理業務の仕事を始めた。スーパーの従業員募集やテナント募集をする仕事だ。その仕事も南京で飽和状態となると、彼女は商業ビルのフロア管理の仕事を見つけた。
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