“大胆さがあれば、多くの作物が収穫できる”
食事の問題がまだ解決されないうちに、「誇張」の風潮が広がってきた。「大胆さがあれば、多くの作物が収穫できる」とのスローガンが、内郷県の壁に現れた。
賈清傑さんによると、1950年代の末ごろ、内郷県には化学肥料工場が非常に少なく、ほとんど堆肥を使っており、小麦の1ムー(約7アール)あたりの収穫高はどんなに多くとも150キロ程度に過ぎなかった。しかし、当時の生産大隊の幹部は、もっと気を大きく持ち、さらに入念に耕作すれば、収量を数倍にできると言った。
当時の「中国共産党南陽地方史簡編」の第5章第5節には、「1959年10月、『南陽日報』紙は、南陽地方の工業生産が65日間繰り上げて1959年の生産躍進計画を達成し、秋季の穀物は1958年比27.7%増となり、667ヘクタールの水稲の1ムー当たり収量が400キロ以上に、1万5008ヘクタールの綿花の1ムー当たり原綿収量が75キロ以上に、5万7600ヘクタールのサツマイモの1ムー当たりの収量が3000キロ以上に、1万5368ヘクタールのトウモロコシの1ムー当たり収量が175キロ以上に達した、と発表した」との記載がある。実際には、その年の南陽の工業生産総額は前年に比べ78.76%下がり、農業生産総額は23.02%下がっていた。
1961年、12歳の賈清傑さんは両親を亡くし、姉とともに郷の福祉施設に送られた。 その後まもなく、2人はそれぞれ別の夫婦に引き取られていった。
「豊かになるにはまず道路の修築」
「北京週報日本語版」2009年9月11日 |