「米国チームの監督を務めることができたのは、とても誇りを持っている」
代表監督 郎平
種目 バレーボール
所属チーム 米国バレーボール女子チーム
郎平さんは1960年北京に生まれ、13歳で北京工人体育館の少年体育学校バレーボール・クラスに入り、1978年末にスパイカーとして中国バレーボール女子代表に選抜された。副主将、主将、副コーチを歴任。
1980年代、中国女子チームは世界の三大バレー競技で優勝し、「五連覇」(1981年ワールドカップ、1982年世界選手権、1984年ロサンゼルス五輪、1985年ワールドカップ、1986年世界選手権)を達成した。その功臣的存在は、中国人に「鉄のハンマー」と親しみをもって呼ばれた郎平さんだった。
郎平さんは1995年2月、中国バレーボール女子代表チームの監督に就任し、このチームを率いて翌年のアトランタ五輪で金メダルに輝いた。1999年3月に体調が原因で辞職。
05年から米国バレーボール女子チームの代表監督を務めて以来、中国チームと計8回も対戦し、3-5で劣勢にあった。最後の1回は8月15日に行われた北京五輪の女子バレーボール一次リーグで、3-2で中国チームに勝った。
だが、郎平さんが米国チームの監督を務めたことを、一部の中国人は納得していない。
これに対し、郎平さんは8月5日に新華社のインタビューを受けた際、「米国チームの監督を務めることができたのは、中国バレーの技術とレベルが米国というスポーツ強国に認められたことの表れであり、とても誇りを持っている」と胸を張った。
さらに「米国で監督を務めることは、私にとってチャレンジだ。まったく異なるスポーツ体制の下で、すべての事や細かい点に一から適応しなければならないからだ。現在、中国のバレー監督をスポーツ強国の米国に『輸出』することができたのは、光栄ではないかと思っている」と言った。
中国のバレー界のその他の人との関係について、「競技場以外では、みんな仲良しだ。だが、競技場では、競り合うことがあり、勝とうとすることもある。バレーボール界は大ファミリーであり、スポーツには国境がなくなったからだ」、「ここは『home』という感じ。これこそ、今回北京五輪に参加した最初の感じだ」と言った。
また、監督としての感想にふれて、「私は自分の経験を米国の女子バレーボールチームに伝授すると同時に、多くのことを学んだ。監督を務める過程は一生の記念になることだ」と言った。
「北京週報日本語版」2008年8月19日 |