頤和園(旧名・清蔬園)は、北京市街区の西北郊外に位置し、清代の繁栄期である乾隆年間(1736~1795年)に創建された。乾隆帝は色を好まず、放蕩をきらい、ただ「山水の楽、懐に忘るあたわず」(『御制静宜園記』)を心情としていた。清蔬園の施工平面図や立体模型は、すべてみずから審査許可して、所管した。清蔬園は乾隆15年(1750年)に着工、15年の歳月を経て、乾隆29年(1764年)に完工した。
乾隆帝が手がけた清蔬園は、歴代皇帝と同様に、その思想と好みによって造られた。乾隆帝の造園思想は「天人合一、皇帝権力至上の思想」「長寿不老の神仙思想」「享楽の思想」を合わせたものだ。そのため、清蔬園は歴代皇室の庭園や私家庭園、名山大川、著名な寺院の精華を融合させて、中国の典型的な庭園芸術の代表作となったのである。
頤和園は面積290ヘクタール、万寿山や昆明湖などで構成される。園内の各種宮殿や庭園建築には、合わせて3000間(部屋)あまりあり、その用途によって執政、居住、遊覧の三つの活動エリアに分けられた。
昆明湖はもともと、北京の西北郊外を豊かに流れる泉水を引き、天然湖となしたものだ。乾隆帝が清蔬園を建造したとき、現在の規模へと拡大された。その水面は、頤和園の総面積の4分の3を占め、220ヘクタールに達する。湖上には東堤、西堤、南湖島、十七孔橋などの美しい景観がある。
高さ58・59メートルの万寿山は、頤和園を代表する風景である。燕山の余脈に属した小山で、その昔、昆明湖拡大のために掘り起こした土が、山の東西両側に積み上げられた。それが対称的でなだらかな山坂をもつ、いまの姿になったのだ。
山の南側は「前山」と呼ばれている。昆明湖畔の「雲輝玉宇」牌坊(鳥居型の門)から始まり、「排雲門」「二宮門」「排雲殿」「徳輝殿」「仏香閣」を経て、山頂の「智慧海」に至るまで、だんだんと上る中軸線上に、巨大な代表建築群が配されている。この建築群の中央にある排雲殿は、清の光緒12年(1886年)、慈禧太后(西太后、1835~1908年)の誕生を祝うため、清国海軍の経費(白銀)を流用して再建したものだ。排雲殿の前方には、排雲門と二宮門があり、その二つの門の間に造られた池には、漢白玉の「金水橋」がかけられている。東西両側には、それぞれ「配殿」と「耳殿」があり、すべての建築には回廊が渡されている。頤和園の中でも、もっとも雄大な建築群だ。
仏香閣は、高さ20メートルの石製台座の上に建つ、高さ41メートル、八角形三階建て、四重のひさしをもつ塔である。堂々とした構えで、頤和園の代表建築であり、シンボルでもある。ここから頤和園全体の景色が、俯瞰できる。排雲殿は絢爛豪華なきらびやかさだ。昆明湖の波はキラキラと輝き、竜王廟の香煙はゆらゆらと立ち上り、東堤、西堤の柳は青々と生い茂っている……。東を眺めれば、はるかに北京市街区の街並みが見え、西を望めば、美しいまでの玉泉宝塔や西山の山並みが目に入る。仏香閣の一階には、明代(1368~1644年)に鋳造された「千手千眼観世音菩薩銅像」が祭られている。
万寿山の北側は「後山」と呼ばれ、チベット仏教寺院の傑作・サムイェ寺(チベット自治区ダナン北部)を模したという建築群「四大部洲」がある。18の建築物で構成される。漢族とチベット族の建築様式を融合させたもので、壮大で鮮やかな色彩である。それは、中国の各民族文化の交流をはじめ、当時のチベット地方政府と中央政府の緊密な関係を表している。残念なのは、清の咸豊10年(1860年)、中国を侵略した英仏連合軍により、ほとんど焼き払われてしまったこと。近年、大規模な修復工事が行われ、四大部洲にふたたび乾隆時代の規模と輝きがよみがえった。
四大部洲のふもとは、頤和園の後湖である。後湖中央の両岸には、水際に多くの商店が建ち並んでいるが、それは乾隆帝が江南水郷の風景を模して、設計したものである。当時、皇帝と皇后はよくここで舟遊びをした。商店の店員は、宦官たちが扮した。そのため、ここは「売買街」または「蘇州街」と称された。
頤和園には、独特な建築物が二つある。一つは、仏香閣の西側にある「宝雲閣」で、もう一つは、万寿山の西端で昆明湖畔にある「清晏舫」だ。
宝雲閣、別名「銅亭」は、銅で鋳造された仏殿である。高さ7・55メートル、重さ207トン。木造建築を模しており、漢白玉の須弥座(土台)に建てられ、入母屋の屋根と複数のひさし、ひし形の飾り窓を四面にもっている。小山の上に、これほど重く精美な銅亭を建立できたのは、ひとしく職人たちのすぐれた技術によるものだった。彼らの名前は、いまも銅亭の南窓下の内壁に、刻まれている。
英仏連合軍が清蔬園を焼き討ちしたとき、銅亭は残ったが、銅製窓枠は持ち去られてしまった。1993年、アメリカのある工商保険会社の会長が、失われた銅製窓枠10枚を51万5000ドルで買い取り、無償で中国に返却した。96年には、フランスが無償で窓枠一枚を返却した。頤和園としても持ち去られた窓枠を補充した。こうして銅亭はふたたび、現代人の前に完全な姿でよみがえったのである。
清晏舫は、別名「石舫」とも言う。全長36メートル、すべて白色の石で築き上げられている。もともと、上部の建物は中国式の楼閣だったが、英仏連合軍の焼き討ちの後、1893年に慈禧太后が現在のような洋式の楼閣船に建て直した。頤和園の中では唯一の洋式建築である。
万寿山の南麓で、昆明湖の北岸に、東西にはしる長さ728メートルの彩色画の長廊がある。それは、頤和園の配置の中では「ポイントをつなぐ作用」があるといえよう。まるでかけ橋のように、万寿山の前方に分散する景観をつなぎ、ふもとに広がる空間を補っている。長廊には合わせて273間あり、内部の梁にはみな、生き生きとした筆致の「蘇州式彩色画」が八千幅も描かれている。彩色画の内容は、風景、花鳥などのほか、『三国志演義』『西遊記』『西マ瘠L』『説岳全伝』『封神演義』などの物語がある。長廊は中国の古典庭園建築において、きわめて高い芸術的価値をもっている。
「玉瀾堂」と「楽寿堂」は、昆明湖北東側の湖畔に位置しており、中国近代史における重大事件を検証する建物となっている。玉瀾堂は清の光緒帝(1875~1908年)の寝宮であった。楽寿堂は慈禧太后が頤和園を訪れたとき、居住した場所である。光緒24年(1898年)、光緒帝と維新派が新政を敷くために起こした「戊戌の変法」の失敗後、楽寿堂の慈禧太后は、光緒帝を玉瀾堂に軟禁しようと、四方に通じる玉瀾堂の多くの門をレンガでふさいだ。また、慈禧太后は北京城に帰ると、光緒帝を中南海の蟄台に監禁、死に至らしめた。玉瀾堂には、いまもレンガに閉ざされた門が残されている。
昆明湖の南から西にかけて、「西堤」と呼ばれる一本の堤が築かれている。西堤の上には各種の亭橋(東屋をもつ橋)があるが、それは乾隆帝が杭州西湖の蘇堤を模して造ったものだ。ここは一片の田園風景で、乾隆帝は昔、ここに「耕織図」(耕したり、布を織ったりする図)という直筆からなる碑を残した。
昔、皇帝や皇后たちは、「長河」をはしる船に乗り、頤和園へと赴いた。現在は「昆玉河」(昆明湖―玉淵潭)と改名された河が整備され、北京市街区から乗船して、美しい景色を楽しみながら、頤和園へと到達できる。(写真提供=于明新)
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