このような政治ロジックに基づいて、安倍首相の対中外交は抑制を基調とした「抑止戦略」を実行している。その基本モデルは、国際的に至る所で中国を非難し、公然と派閥を作って集団で中国に対処しておきながら、その一方では中国との対話を声高に叫ぶというものだが、対話の目的はむしろ抑止のほうが大きい。安倍首相は最近G7(西側先進七カ国)を引き入れて東中国海と南中国海問題についての共同声明を発表し、しかも自らも日本の艦船に南中国海を警らさせるという米国の提案を積極的に検討している。バンドンの演説で、安倍首相は歴史問題について当たり障りのないことを言ってすませた後、ただちに矛先を中国に向け、中国が武力で脅迫していると暗に名指しし、ひいては国際的に定義が統一されていないと安倍首相自身が考えている「侵略」という言葉まで使った。
こうした対抗的な政策下であるというのに、日本政府はバンドンで習主席と安倍首相の二度目の会談を提起した。しかし日本人にとって意外だったことに、会談は日本の予想したような外で立ち話をしてそれらしい様子を見せるというものではなく、室内で着席して行われた。安倍首相は明らかに今回の本当の意味でのトップ会談のために心の準備ができておらず、中日関係改善のために有益な主張を打ち出せなかった。日本メディアはこの会談について、安倍首相の対中外交を「対話と抑止の二重戦略」と読み解いた。安倍首相の重点が対話ではなく抑止にあることは明らかだ。
世界の霸権国家たる米国までもが中国に対し抑止戦略を取っていないとはっきり明言し続けている今、日本は中国を「抑止」しようとしている。その意味は普通ではない。これはまさしく、日本の歪曲された歴史観が、歴史を変えることができずに日本自身を歪曲してしまったことを示しているのではないか。歪曲した精神構造の下で、日本は外の世界を正しく読み解くことができなくなってしまった。条件がまだ成熟していない中で習主席が安倍首相と会談したのは、安倍首相に自らの陳腐な考え方を露呈させ、中日が手を携えて共にアジアの未来を築く局面を作るためだった。しかしそれは日本の一部の人々から、中国が苦境にあり、日本の助けを求めているから、安倍首相の歴史修正主義に対して容忍の態度に転じたのだ、と解釈されることになった。これはまさに笑止千万である。
安倍首相は帝国の思い出にふけり、米国と対等の立場でアジア太平洋の未来を掌握することに憧れている。安倍首相は日本が失ったアジアの覇者の地位が忘れられず、習主席が老婆心から繰り返し安倍首相に説いた、アジア諸国の協力・ウィンウィンの関係構築と手を携えて共に進むという道理を聞き入れず、また理解することもできなかった。安倍首相の見たところせわしない外交は、実のところは歴史の深い霧の中で方向を見失って驚き、逃げまどってやみくもにぶつかっているだけのことで、自身だけでなく周囲をもかき乱している。
「北京週報日本語版」2015年4月30日 |