南方出身兵士の工夫が生んだ美食
ガイドは続ける。
「戚継光が率いた『戚家軍』の主力は江蘇・浙江出身の人々でした。南方の米文化で育った彼らは、雑穀の多い北方の食事になじめず、厳しい国境守備の仕事に耐えることができませんでした。そこで『戚家軍』は、雑穀のでん粉で作った皮で三鮮餡をくるみ、餃子のような形に整え、それを木の葉でくるんで蒸した食べ物を考え出したのです。」
柏の葉の中にはでん粉で作った「餃子」。中身はエビ・卵・ニラ入りの三鮮餡だ
「南米北麺」と言うくらいで、確かに江蘇や浙江あたりと北方中国辺では食生活はだいぶ違う。ボールォビンは、南方中国から北辺防備のために借り出された兵士たちが、異なる食文化環境で生き抜くための切実な必要性から生みだした食品であり、また限られた食材でどうにか故郷の繊細な美食を再現しようとした工夫の賜物だったのだ。
それにしても、なぜ「パイナップル」なのだろう。山海関を越えればそこはもう東北地方という秦皇島にパイナップルが自生していたとはとても思えないのだが……
もちろん、秦皇島にパイナップルは自生していない。「ボールォ」は「餑欏」と書き、実は柏を表す方言なのだ。長城の周辺に生えているのは柏の木で、餑欏餅は毎年5月頃に出る柏の若葉を使った食べ物だったのだ。
柏餅のルーツ?
餑欏が柏ということは、つまり餑欏餅は柏餅?確かに、その外観はまさに柏餅そのものだ。もしや、日本の柏餅のルーツは戚継光が率いた「戚家軍」が作り出した餑欏餅なのか?餑欏餅はその兵法書「紀効新書」とともに、日本へと伝わったのか?
しかし、実際に食べてみると、餑欏餅と柏餅は似て非なるものだった。柏餅の「餅」の原料は上新粉で、すなわちうるち米を加工した粉だが、餑欏餅の「餅」は雑穀のでん粉から出来ている。生地は柏餅よりもかなり薄く、蒸しあがると中身が透けて見えるほど。柏餅というよりは、香港や広東などで食べられる飲茶点心の粉果のほうが近いように思える。
決定的に違うのは、柏餅の餡が小豆あん(場所によってはみそあん)なのに対して、餑欏餅の餡は三鮮餡(エビ・卵・ニラなど三種類の具を使った餡)であることだ。餑欏餅が柏餅のルーツだと考えるのはどうやら少し無理がありそうだ。
柏餅の餑欏餅ルーツ説はさて置き、明代に北方辺境守備の役割を担った南方の兵士たちが作り出した餑欏餅が、今も秦皇島の名物として生きているのは事実だ。その間、この地にはさまざまな歴史的事件が起こった。歴史を動かした大事件にかかわった人々も、この地で戚継光ゆかりの餑欏餅を食べたのだろうか。そう思って食べると、いっそう味わい深い。
(写真はすべて筆者写す)
「北京週報日本語版」2011年12月7日 |