◇記者の責任感と自己認識◇
福島第一原発が爆発した直後、一部のメディアは県内の任地から避難した。停電になり電話もパソコンも使えず、連絡をとることや原稿を送ることもできなかったので、会社の指示や送稿するため止むを得なかった“退避”だったのかもしれない。数日後それぞれの任地に戻ったが、現地の市民からは、「メディアは市民を置いて逃げてしまった」と批判されたという。
1986年のチュルノブイル原発事故では、毎日新聞社のモスクワ支局長が支局員を集めて、「私が取材に行く。私には子供がいないから」と言って、放射性物質に汚染された地域に取材に行った。この先輩記者は6年後、52歳で他界した。もちろん、危険は承知していたが、発表だけを信じてニュースにするのではなく、どんな場合でも現場に行き取材する必要性を、後輩に示したかったのだと思う。
“社会の木鐸”や“無冠の帝王”“第3の権力”などといわれた時代の新聞は、記者の強い責任感と自己認識によって成り立っていた。
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8月に入ってから、北京週報や日本のNHK、共同通信のニュースで福島佳代ちゃんが、被災した東北地方の小中学生90人と一緒に海南島に行ったことを知った。NHKのニュースでは、しっかりした声で、「中国をはじめ世界中の方々から温かいご支援を受け、たくさんのパワーをいただきました。」と「感謝の言葉を」述べている声も聞くことができた。海南島は1週間の滞在のようだったが、帰国後は改めて温家宝総理にお礼の手紙を書くとともに、多くのマスメディアを通じて、海南島での楽しい思い出を被災者や日本人の多くの人に知らせてほしい。それによって温家宝総理の日本への思い遣りも活かされ、日本と中国の人たちの相互理解や温かな交流が深まれば、佳代ちゃんが望んでいた「日中の架け橋」の役目を果たすことになると思う。(撮影者氏名ない写真は筆者撮影)
「北京週報日本語版」2011年8月19日 |