◇水田には雑草、道路は地割れ◇
海岸沿いの水田には津波に運ばれてきたコンクリート製のテトラポットがいくつも転がっている。その脇には耕運機やショベルカーが、所在なげに放置されていた。水田内に稲穂はまったくない。雑草がボウボウと生えているだけだ。
大きな二階建ての家の室内は津波に荒らされ、広い庭には耕運機などが散乱していた(いわき市久之浜町)
道路には地割れした跡がいまだにくっきりと残り、橋の手前には10センチ余りの段差ができていた。道路脇にある大きな2階建ての家は、玄関の戸やガラス窓がほとんどなくなり、室内は津波に襲われ足の踏み場がないほど荒らされている。広い庭には、材木や浮遊物があちこちに散らばり、手の施しようがない。道路から細い道に入った所には、「広野町消防団」と書かれた消防車が、車体はぼごぼごになり林の中に突っ込むように止まっている。津波来襲を知らせながら避難を呼びかけている最中に自ら津波に襲われたのかもしれない。
◇人影のない敗戦時の風景◇
いわき市内の海岸地域に入ると、住宅のあった土台だけが残り、広い一面が浜風に吹かれていた。このような焼け野原のような風景を見たのは、60年以上も前の敗戦後だ。疎開地の山形県から東京に戻った時と同じような風景だった。あのころも空襲によりほとんどの家屋はなくなり、木造のバラックがあちこちに建っていた。風景は今に似ているが、人がたくさんいてなにか活気にみなぎっていた。敗戦でも戦後復興への意欲が溢れていた。物資不足、食糧難、みんなが貧しく、生活は苦しかったが、生きる望み、希望、未来への期待があった。
しかし、ここ被災地に人の姿はない。人も家も多くが大津波により海に流され、残された被災者は途方に暮れている。加えて、終息のめどがつかない放射能汚染の恐怖がある。何か明るい希望はないのかと思い、いわき市平薄磯にある「ひばり街道」に向かった。ここには「昭和の歌姫」美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑や「ひばり像」が建立されている。塩屋埼の灯台とともに知られた観光地だ。ひばり像も灯台も外観は無事だった。転勤で勤務地を離れ16年ぶりに再会した歌碑や灯台は復興の足場になる象徴のように思えた。
未曽有の災害に見舞われたかっての勤務地は、想像よりはるかに悲惨な状況だった。私は災害後の瞬間をチラッと目撃したに過ぎない。被災者は不自由な避難生活と目に見えない放射能汚染の恐怖がこれから何年間も続く。
7月25日、31日には福島県内で震度5の地震が発生した。災害はまだ進行中であることを実証しているようだった。(写真はすべて筆者写す)
「北京週報日本語版」2011年8月17日 |