7年かけて撮影 ココシリはすでに私の生命の一部
初めてココシリを越えた経験の後、裴氏はココシリの撮影に没頭し、2005年から2011年までの7年間で、累計300日以上にわたって撮影を行った。多くの詳細で確かな写真や文字の資料は、人々に神秘的なココシリを理解してもらうための扉を開いた。
2006年10月、裴氏は中国科学院の科学視察に参加できず、友人の紹介のもとで、同年12月に1人でココシリに入った。それから、車も器材も賛助も組織もない「4無」のカメラマンの困難に満ちた「夢を探す」旅が始まった。果てしなく広いココシリでの初の単独撮影は、裴氏にとって、精神的にも肉体的にも厳しい試練であった。
裴氏は次のように語った。「毎日撮影に出かけたため、私はいつも保護区スタッフのパトロール車両に同乗し、時には明け方に活動する動物を撮影するために、夜中の2、3時に宿泊地から徒歩で出発しなければならなかった。最初の頃、保護区スタッフは私を歓迎しなかった。しかし、私の撮影の目的が現地の生態資源と野生動物をより良く守ることにあると分かったとき、保護区全体は私に多くの支持と援助をしてくれた。毎年、ココシリでの撮影期間中には、みんなが実の兄弟のように付き合っていた」。
2007年7月、裴氏はあるメディアの記者と一緒に卓乃湖へチベットカモシカの出産を撮影しに行った。車がだんだん卓乃湖に近づいていくと、同行の記者は深刻な高山病にかかった。「安全に到着することができなければ、安全に戻らなければならない」。これは高原の複雑な気候と地形条件が人々に与えた最良の警告だ。同記者の健康と命を守るために、彼らは元の道に沿って戻るほかなかった。
しかし、帰り道は困難を極めた。「暖かくなるにつれて、ココシリ保護区の多くのところの表面の土質は軟らかくなり始め、青蔵道路から70、80キロ離れたところで、私たちの車は泥にはまってしまった」。できるだけ早く脱出するために、裴氏は他の人と一緒に周辺から石を探してきて、それを車のタイヤの下に置いた。5日4晩のたゆまぬ努力を経て、周囲2キロ以内の石がすべてタイヤの下に置かれた。並べた石が高原の凍土層まで達した後、車はようやく泥から脱することができた。
「ああしたところでは、昼間はまだいいが、夜の温度がマイナス30度余りに達する。寒さに直面し、お湯も食料もなく、仕方がなくしゃがみ込んで身を寄せ合い、上着で自分のひざを包みこんで、一生の中で最も忘れがたい4晩を過ごした。信念や生きたいという欲求の支えがなければ、もろくて弱い生命はもう終わってしまったかもしれない」。裴氏は高原から帰った後、まず妻に電話をかけた。妻はみんなに「もう遭難した」と言われた夫が意外にも生きて帰ってきたことを信じられなかった。妻と子どもの声を聞いたとき、裴氏は涙にむせび、「生きていて本当によかった」と言った。
2007年、裴氏はココシリの野生動物の写真を1枚も撮れず、チベットカモシカの出産を撮影する最良の機会も逃がした。2008年、さまざまな原因で、裴氏は依然としてチベットカモシカの出産を撮れなかった。2009年の夏、裴氏は雷雨の中、高原の多雷地域に入って撮影を行ったとき、意外な幸運に出くわした。「その日の朝、私はいつものように、カメラを設置した遮蔽物の中に入った。レンズを覗くと、一頭の雌チベットカモシカがひっきりなしにしゃがんだり、立ち上がったり、同じところをぐるぐる回ったり、尾を振ったりしていた。この動きはチベットカモシカが間もなく子を産む兆候だと知っていたので、そのとき私はたまらなく興奮した。自分の撮影が世界初のチベットカモシカの出産記録になると知っていたからだ。私はシャッターを切り続け、この雌チベットカモシカが子を産むすべての瞬間を記録した」。
裴氏は言う。「毎年、ココシリでの撮影は私の人生の中で最も楽しい日々だ。撮影を通じて、私は多くのことを学んで身につけ、生態保護、人と自然との調和の重要性を理解した。多くの場合には、大きな危険に直面する可能性があるが、有意義なことをしていると思っている。数年来の撮影で、ココシリはすでに私の生命の一部になっている」。
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