朝鮮銀豊合営会社。袋詰め作業をする労働者(張利撮影)
◆一貫して自らの発展路線を模索
冷戦終結後、国際環境が激しく変化し、朝鮮経済はそれまでの社会主義陣営の拠りどころを失ったことで著しく後退し始めた。90年代中期の深刻な自然災害で経済的困難はさらに悪化。当時、経済は数年連続してマイナス成長だった。朝鮮は比較的富裕な国から零落して外貨、エネルギーと食糧が欠乏する国となった。
「苦難の行軍」を経て新世紀に入ると、朝鮮経済は徐々に回復していった。だが、長期にわたる経済的困難のため、現行の経済運営方式を引き継ぐことはできなくなった。指導者は新たな情勢の下で、経済発展の方法を模索し始めた。
01年、金総書記は「古い観念から脱却し、斬新な思考をする」ことを提起。02年7月1日には、生産効率の向上を目標とした「経営管理の改善措置」を打ち出した。措置には計画策定権の下部組織への移譲、為替レート改革や価格改革などが盛り込まれており、政策面から長期にわたり実施する供給制度にも触れている。朝鮮経済は実物経済から貨幣経済へと転換。商品経済と市場メカニズムもこれに伴い経済生活に深く浸透していった。
だが、「7・1改革」は新たな経済環境に適応した第一段階の模索の実践に過ぎず、決して系統的な改革ではない。経済の発展問題を解決する上で、多くの理論・実践的問題が指導者に突きつけられた。外部の安全環境に極めて大きな不確実性が存在する中で、いかに経済発展と先軍政治との関係を処理するか、外部に敵対環境が存在する中、いかに開放と自我の主体との関係を処理するか、また、複雑な内外の政治・経済環境の中で、いかに市場経済と経済計画との関係を処理するか――といった問題である。
03年以降、経済模索の路線が明らかに外部の安全環境の変化による影響を受けたことで、朝鮮は再び先軍政治、国防の発展をことさら強調するようになった。このため、08年になってようやく経済発展をスポットライトに据え、「強盛大国」を建設するとの目標を掲げることで、12年の金日成主席生誕100周年の際に、強盛大国の扉を開くと期待を寄せている。精力を集中して経済を発展させる、これが今、朝鮮では新たな社会的運動となりつつあるようだ。
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