北川新県城永昌小区のそばにある市場 (石剛撮影)
2008年5月12日にマグニチュード8.0の巨大地震が発生するまで、程さん一家4人は北川県曲山鎮に住んでいた。当時、程さんは鑼浮山温泉酒店でボイラー工をしており、妻の黄さんはエレクトロニクス企業で検品の仕事をしていた。地震発生時家で休んでいた程さんは、強烈な揺れで3階から2階へと転げ落ちた。程さんは急いで妻を連れ、当時まだ4カ月だった息子を抱いて逃げた。10歳になる長女を連れて一緒に逃げようと曲山鎮小学校まで来て、学校が崩れた山の土砂に埋まっていることにようやく気がついた。
「5•12」地震の震源地は140キロ離れた汶川県映秀鎮だったが、同じプレート上に位置する北川は、一方はヒマラヤ山脈の支脈、もう一方には龍門山脈の支脈があり、しかもどちらも頁岩であったため断裂が最も深刻だった。県城全体が破壊され、5つの郷鎮が廃墟と化し、死亡者数が最も多く、被災範囲が最も大きく、損失が最も深刻で、再建が最も困難な、特に甚大な被害のあった県となった。5月25日、地震後13日目に、党中央と国務院は、北川チャン族自治県の県城を元の場所とは違う新たな場所を選んで再建することを正式に許可するという重大な決定を下した。
地震後、程さんは生命の危険を冒して家に戻り不動産証明書を探し出し、黄さんと一緒に子供を連れて綿陽の親戚の家に身を寄せた。3カ月後、程さん一家3人と岳母は綿陽九州体育館近くの永興仮設住宅に入居した。そこで程さんは救援物資の積卸を手伝い、衛生消毒伝染病予防の仕事に自ら志願した。妻の黄さんは工場で検品の仕事をし、閑な時間には刺繍をしたりチャン族の民族舞踊である鍋荘舞を習ったりした。年越しのお祝いの時には仮設住宅の隣人らと踊りを踊って興を添えた。
6月から8月の間に、国の地震対策救済計画専門家チームが北川全県の20余りの郷鎮と300余りの村を評価視察し、新県城を北川の旧県城から東南に23キロ、綿陽市から40キロ離れた、安県安昌鎮と黄土鎮の間にある板櫈橋に建設することを最終決定した。
中国都市計画設計研究院の李暁江院長によると、板櫈橋は地質的に将来地震やその他土砂災害が発生する可能性が比較的小さい。更に重要なのは、山岳民族であるチャン族は山や水と非常に深いつながりを持っているということ、板櫈橋一帯は歴史的にチャン族が活動し居住してきた地域であり、こうした山や川に近い場所での北川県城の再建はチャン族文化の継承にいっそう役立つということだった。
2009年2月、民政部は土地面積160平方キロ、計8万人が住む安県安昌鎮、永安鎮、黄土鎮の常楽、紅岩、順義、紅旗、温泉、東魚など6つの村を北川チャン族自治県の管轄とすることに同意した。胡錦濤総書記は北川新県城を「永昌鎮」と名づけた。「永遠の繁栄と隆盛」の意味が込められた。
こうして、北川は「5•12」地震被災地で唯一元の場所とは別の場所に再建される県城となったのである。
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