隊列を並んで公共電話を待つ市民たち(渋谷)
二、交通がマヒ、徒歩で帰宅
携帯電話は通じず、鉄道が止まり、私と同僚たちは池袋から動けなくなった。バスは池袋中心部を出て郊外に向かいはじめたが、道路は想像できないほどの交通渋滞だった。次のバス停まで進むのにほとんど20分、ひいては更に長い時間かかり、ちっとも進まなかった。バスが動いている時間よりも停まっている時間のほうがはるかに長かった。混雑する社内で、私たちは互いにぴったりと身体を寄せ合うしかなかった。真夜中近くになって急に携帯電話がつながるようになり、バスの車内で電話の呼び出し音があちこちで鳴った。しかし、私を含め電話に出たすべての人が小さな声で何言か話した後すぐに電話を切った。日本では、公共交通機関の中では電話をしないのがルールなのだ。このような緊急事態でも、人々はいつも通りルールを守った。日本人は全く頑固なんだから・・・・・・と思いこそすれ、内心粛然として襟を正す思いだった。
バスはたっぷり4時間余りかかって家の近くのバス停に着いた。そこから先はバスがなかった。タクシーを待つ長い列がすでに数十メートル続いていた。仕方なく、私と同僚は徒歩で帰宅することにした。道の両側は歩いて家に帰る日本人でいっぱいだった。黙々と、静かに一歩一歩先に進み、パニックやいらだちは見られなかった。旧正月の帰省ラッシュ時ですら、これほど「家に帰る」という感覚を深く感じたことはなかった。地震の後最初に思い浮かんだのは、私の夢や、疲れや、喜怒哀楽のつまった場所に帰る、ということだった。真夜中の日本の街角には家に帰りたいと切に望む人々があふれ、通りいっぱいになんとも言いがたい固い決意と温かさが立ち込めていた。人の流れとともに、私も早足で歩いた。家に着いたのは深夜2時過ぎだった。池袋を出てからすでに8時間が過ぎていた。
私は日本に来てから3年が経ったばかりだが、東京で100年に1度の災難に遭遇した。緊急時でも落ち着きと秩序、無私の心を見せた日本には、少なくとも、学ぶところがあると思う。
「北京週報日本語版」2011年3月14日 |