劉 芳
東京で3•11大地震を経験した後、私が最初に感じたのは「人生が経験すべきことは全部経験した」だった。死を恐れていないわけではなく、生きている間にこれほどの大地震を経験し、さまざまなシーンを体感し、この目で目撃し、この耳で聞いて、大災難を生き抜いたような心持ちになったのだ。
11日午後2時46分、日本東北部の海域でマグニチュード(M)9.0の地震と津波が発生し、多くの死傷者が出ている。東京でも震度5強を記録し、大きな被害を受けたわけであるが、市内が秩序立ている。写真は隊列を並んでバスを待つ東京市民。
一、地震後の秩序整然とした避難
3月11日、金曜、私はオフィスで企画書を修正していた。突然、机や椅子が揺れ始めた。十数秒後、状況がおかしくなってきた。机が移動し始めたのだ。私は机の下にもぐりこみ、手で頭部を守った。日本で受けていた地震防災教育で、地震の時は慌てて逃げたりせず、まず机の下にもぐるように教えられていたのだ。会社は8階にあり、激しく揺れた。みな互いにぴったりと並んで、一列になってビルを下りた。
避難の過程を通して取り乱す人は見られず、大声で叫ぶ人すらいなかったと記憶している。外には開けた広い場所があり、私たちが避難してきた時すでに多くの市民がここに集まってきていた。私は言葉少なく、ただ静かに周囲を見回し、地震後の人々の様子を見ていた。
西池袋公園付近の広場は避難してきた市民であふれていた。私は人の流れとともに秩序を保って移動した。どの交差点にも警察がいて、車と人の交通整理に当たっていた。移動の途中、どの電話ボックスの前にも家族に無事を伝えようとする人がいた。私が感動したのは、彼らが先を争ったりせず、静かに長い列を作っていたことだ。池袋のようにさまざまな人々が集まる複雑な場所でさえ、秩序を乱す人は一人もいなかった。通りかかった電話ボックスには中国人の姿も見られた。彼らは方言で故郷や肉親への思いを話しあっていた。
避難する途中で、人々はベビーカーを押す人に進んで道を譲り、子供が好奇心から密集した人の群れを見て「ワーッ」と泣き出してしまっても、周囲の人はみなやさしい視線を投げかけていて、温かい気持ちになった。車椅子に乗ったお年寄りが看護師に付き添われて近くの病院から避難してきた。病院からの避難プロセスがどうなっているかは知らないが、日本では緊急時の病院からの避難はとても効率よく行われると聞いている。ダウンコートをはおった看護師が二人いて、一人は腰をかがめて歩きながらお年寄りに状態を尋ね、もう一人は車椅子を押してお年寄りを広い場所に連れていった。
池袋駅西口にはバス停が集中している。遠くから眺めるとバス停の前に人がごった返しているのが見えた。早足で近くまで行くと、全員がバスを待っていることが分かった。S字形の長い列がくねくねと数百メートル続き、列の最後尾がどこか分からなかった。私と同僚が最後尾を探そうとしていると、列に並んでいた市民が親切に教えてくれた。交通整理員はいくらもいなかった。係員の管理もなく、何の指示のない状況でも人々が自覚的に列に並ぶことに、私は深く感動した。
こんな風にして、私と同僚は広場近くで静かに余震が終わるのを待った。日本の人々が避難の過程で見せた整然とした秩序と冷静な落ち着きのおかげで平静さを取り戻すことができ、揺れるビルの階段で感じた恐怖を除いて、心の中は終始安全感であふれていた。
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