◇「写作」の授業で“人生観”考える◇
「写作」の授業として、「同学」の「素晴らしい長所」を書くようにしたが、授業の波及効果はクラスの団結だけでなく、それぞれの“人生観”をも考えるテーマになったようだ。
人はだれも、相手の欠点や悪いところはすぐ目に付き指摘することができる。しかし、長所や素晴らしいところを褒めることはなかなか難しい。相手の優れているところを相応に認めたくないのも人情だろう。
だから、自分と比較して相手を評価する場合、「自分より劣っている」と見えたら、相手は自分とほぼ同じ実力がある人間である。「自分と同じくらいだ」という場合は、相手の実力がやや上である。「自分よりちょっと上だ」と評価したら、それは、自分より相手の実力がずっと上の人である。競争が激しい職場や仕事仲間で、相手の実力を過小評価するのは、長所を認めたがらない心理と似ている。会社や職場でも、写作の授業と同じように「仲間の素晴らしさ」をテーマにして書いたら、さまざまな人間関係や思惑が絡んでうまくいかないだろう。利害関係がないクラス仲間だから、素直な気持ちで旧友の素晴らしさを評価できたのだと思う。欠点を指摘して改めるよりも、長所を褒めてそれを伸ばすことの方がよい結果になることを、この写作の授業から学んでほしいと思った。
◇感覚を磨き、観点を鋭く◇
写作の授業では、いくら話をしても文章がうまくなるわけではない。自分でいろいろなテーマについてあれこれ考え、たくさん書いて自分の感覚を磨き観点を鋭く鍛えることが必要である。よい文章を書くための本はたくさん出ているが、そのような著書をいくら読んで理解しても効果はあまりない。自分で何回も書いてみるしかない。谷崎潤一郎も『文章読本』(1960年、中央公論社)で、「枝葉末節の技巧について殊更申し上げても益がない。感覚の練磨を怠らなければ、教わらなくとも次第に会得されるようになる」と結論付けている。習うより慣れろだ。
新聞社に入社したからといっても、取材の仕方や記事の書き方などだれもていねいには教えてくれなかった。書いた原稿の不足分をデスクは叱りながら指摘する。足りないところを取材し直してデスクに報告すると、別な個所の不足分を訊いてくる。はじめにまとめて不足部分を訊いてくれれば、再取材のとき相手に訊けるのだが、デスクは故意に指示しない。本来は最初に取材した際に訊くべき事柄なのである。言われなくとも、それくらいは自分で学習して覚えろ、とデスクは無言で注意しているのだ。しかし、若い新米記者は、ブツブツ文句を言いながら、何回も取材相手を訪問したり質問したりする。そして次第に取材の要領を覚える。翌日掲載された記事も、デスクが手をいれたもので、新人記者が書いたものとは思えない立派な文章である。「記事はこうやって書くものだ」と、デスクはまたしても無言で教えている。
さらには、同時に取材した他社の記事にも目を通すと、自分では取材しなかった事柄が掲載されている。そこでまたデスクに怒鳴られる。取材と作文の授業で毎日、試験をされているようなものである。名文記者といわれている人でも、新人のころはデスクに怒鳴られながら、文章感覚や取材の仕方を会得していったのである。
学生に毎回の授業でこのようにするわけにはいかない。面白くて興味を引きそうなテーマを毎回出して書いてもらう。その作文にひとりずつ感想の返事を書き、発表してもらい講評する。たくさん書き、たくさん考え、それぞれの感覚を磨いてもらうしかない。時間はかかるが、それが文章上達の秘訣ではないかと思う。
「素晴らしい級友たち」の作文を学生たちに発表してもらう機会はなかったが、この題を決めるとき参考になったヘレン先生の教え子のように、リストアップした各自の長所を、学生たちは“宝物”としていつまでも保存していてくれるだろうか。(写真は南京大学内にて筆者が撮影)
「北京週報日本語版」2009年5月22日
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