記者は紅崖村の入り口あたりで、それほど遠くはない山の斜面に1基の白い塔があることも目にした。14世ダライラマと同じ祖父の姉(妹)の息子、63歳の祁福全さんは、そこは13世ダライラマがかつて一休みしたことのあるところだと言い、さらに次のように語った――もともと、13世ダライラマはタル寺に1年余り住んだことがあり、のちに北京からチベットに帰る途中にダムツァイ村の入り口で一休みした際、近くの信者大衆がうわさを耳にして集まって来て、献金した。そのため、この地にしばらくとどまり、またこの地の山水の景色を「美しい吉祥の地」とたたえた。推測によると、13世ダライラマの周囲の人たちはその生まれ変わりの霊童を探す際におそらくかなりの度合においてこれらの往時の事を思い起こしたのであろう。またもう一つの非常に重要なことは、その男の子ラムドンチュの両親のチチュツリンとソナムツォは普通の農民であったとはいえ、なんと言っても近くの著名なシャゾン寺の住職のダムツァイ活仏の親戚であったことだ。おもしろいことは、祁家川は蒙古族、チベット族、漢族が住んでいるところで、ラムドンチュの父親はほとんどチベット語を話すことができず、使っていたのはまるっきり青海方言であったという。祁福全さんはまた、私が1990年と1993年にインドに行った際、14世ダライラマに会ったことがあり、自分は青海方言しか話せなかったため、話し合う際にいずれもダライラマの身の回りの親戚達に通訳してもらい、その人たちは今でも青海方言をすらすらと話すことが出きたと語った。
ラムドンチュとその家族は1939年10月にラサに到着し、1940年2月にポタラ宮で正式に坐床した。この過程において、2つのことをどうしても強調しなければならない。1、当時の青海省主席、軍閥の馬歩芳が霊童のチベット入りのために青海を離れるための条件としてチベット側に40万元の銀貨をもらおうとしたことであった。祁福全さんは、チベット側は馬歩芳と手練手管を弄し、青海のこの男の子が生まれ変わりの霊童であるかどうかはまだ確かめられておらず、ラサに行ってからその他の候補者と一緒に認定を受けなければならないとして、その状況を中央政府に報告し、最終的に中央政府は馬歩芳に青海の霊童のチベット入りを護送するとともに、護送費用として10万元の銀貨を支給するよう命じ、馬歩芳はこれでやっとその部下の師団長に兵士を率いて霊童のラサに行くことを護送させた。その後、中央政府はまたチベット地方政府(ガシャ)が打ち出した「護法神と活仏の検証を通じてダライラマの生まれ変わりの霊童を認定する」という提案を否定し、中央政府の蒙古・チベット委員会委員長の呉忠信を派遣し、摂政であったラチェン活仏と一緒に生まれ変わりの霊童を認定するためのくじ引きを主宰することを堅持し、最終的には異なこともあって、呉忠信が自ら霊童の状況を検査した上で、中央政府がもっぱら命令を出して、青海の霊童ラムドンチュに対しくじ引きを免除することを特に許可し、この霊童が14世ダライラマを引き継ぐことを認めるとともに、その坐床式典の経費として40万元の銀貨を支給した。これから見ても分かるように、もし中央政府のバックアップがなければ、ラムドンチュが14世ダライラマ・テンジン・ギャムツォになれたかどうかは問題であった。
「北京週報日本語版」 2009年3月19日 |