その身を「1%」に置く
「この分野では私は若い“老幹部”の部類」と笑いながら語る王俊氏は32歳。
1999年春、国際的なヒトゲノム計画における1%のヒトゲノムのシーケンシングを中国が引き受けたとき、まだ北京大学生命科学院の博士課程を終えていなかった王俊氏は、幸運にもこのプロジェクトに参加すべく派遣されることになった。
国際ヒトゲノム計画の核心は、ヒトゲノムに含まれるすべての遺伝物質DNAの配列を解析することだ。これは極めて大きな任務で、各国の科学者の参加が必要とされる。しかし、巨額の投資が必要なことや技術が複雑なことなどから、多くの国、とりわけ発展途上国は尻ごみするしかなかった。
1998年8月、中国科学院は「ヒトゲノムセンター」を設立した。このとき、ヒトゲノム計画はすでに5つの先進国への「振り分け」をほぼ終えており、この計画に最も遅れて加わったドイツが得られたのは約2%の「分け前」だけだった。
資金が不足していたため、中国の一部の都市や科学者までもが次々と主体的に資金や私財を投じた。北京市順義区では早速、経済開発区に3800㎡の部屋を用意し、科学研究者らに無料で提供することを決めた。
「ヒトゲノムのシーケンシングは人々が思っているほど簡単ではない。それはビッグサイエンスであり、バイオ技術や情報技術などが有機的に集大成されたものだ」。こう語るのは中国科学院ヒトゲノムセンター主任を務めた楊煥明氏で、技術的に言って、数台の機器さえ購入すればどんな実験室でも大規模なシーケンシングや解読ができるというわけではない、と同氏は言う。
ヒトゲノム計画はすべてのメンバーに対して厳しい要求を出しており、多くの国で極めて名声の高い研究所が積極的にその任務を勝ち取ろうとしたが、いずれも承認されなかった。この「クラブ」に参加したいなら、まずは実力を示さなければならない。このため、半年もしないうちに、中国の科学研究者たちは60万を超す塩基対のテストシーケンスを完了させるとともに、中国で最初の微生物のゲノムマップを手に入れた。
1999年9月1日、国際ヒトゲノム計画の第5回戦略会議がロンドンで開催され、中国の「国際シーケンスクラブ」への参加受け入れ準備を行った。そして「バミューダ原則」に基づき、要求に合致するすべてのデータは24時間以内に公開しなければならないことが定められた。
「私たちは5分以内に、面積や設計、人数、機器が1度に出せるデータ数、正確率などを含む実験室のあらゆる状況を報告しなければならず、さらに、国際DNAデータバンクに提出済みのデータによって私たちがすでにどれだけの仕事をしたかを証明しなければならなかった」と楊煥明氏は振り返る。さらに、こうした運営方針に基づき、基準コストがどのくらい必要か、その金額で実行を保証できるかどうかなど、極めて細かい予算が組まれたという。「最終的に、こうした条件を私たちはすべて保証した」という楊煥明氏の言葉通り、国際ヒトゲノム計画は全世界に向けて、中国がこの計画の「最後の一人の貢献者」になったことを宣言した。
中国人が担ったのは、ヒトの3番染色体短腕における仕事で、すべてのヒトゲノムの約1%に当たるものだった。このプロジェクトは国家科学技術部と中国科学院、国家自然科学基金会の組織的、資金的な援助を受けていた。
03年4月、DNAの二重らせん構造が発見されてから50周年となる前日、中国、アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツなどの国の首脳が文書に調印し、6カ国科学者連合がヒトゲノムマップの完了を宣言した。「これは長年の夢がついに現実となったことを意味している。われわれは人類の“設計図”を最初から最後まで、初めて完全に解読し、それを書き換える可能性を持った」と、生物学者でスタンフォード大学のポストドクターである劉菁氏は言う。
その後、国際ハップマッププロジェクトの中で、中国は再びそのうちの10%の仕事を担うことになった。このマップは「人体の第二の解剖図」とも呼ばれ、単純化して言えば、白人、黒人、黄色人種はどこが異なるのかを研究するものだ。その役割は、人体の染色体の塩基配列に対する分析を通じて個人のゲノム情報を手に入れ、遺伝病の予防に役立て、テーラーメイド医療を実現することである。現在、全世界で疾病に関連した2000余りのヒトゲノムが発見されており、そのうち1500がすでにアメリカで臨床診断に使われている。
これと同時に中国の科学者は、水稲、パンダ、カイコ、ニワトリ、ブタなど多くの重要な動植物のゲノムマップを完成させ、ゲノミクス研究の分野において世界をリードする立場にある。
「ゲノミクスはわずか数年間で、人類そのものに対する認識を含め、生命に対する人々の認識を根本から変え、生命科学の観念を変え、研究戦略や規模、方法を変えた」と楊煥明氏は言う。
|