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日本から来た中国磁器

 最後の皇帝・溥儀が故宮を出る前の1911年から1924年にかけての十数年間に清代皇室の内務府が不定期に行っていた競売会は維持のために巨額の費用を投じた。競売にかけられる品は清代の皇室に収蔵されてきた磁器や玉、古銅器などの品々で、毎回、200点から300点が出品された。これは、中国の政府筋が行った最も早期の競売会であったかもしれない。当時競売が行われた場所は、紫禁城神武門内の西配殿で、内務府は北京市内で信用情報を持つ骨董商に招待状を送り、招待状を受け取った骨董商は国内業者、外国業者を問わず、指定された時間に保証金を納めた。当時は図録という言い方はなかったが、競売品のリストは配布しており、「天字磁器」、「地字磁器」、「天字玉器」、「地字玉器」、「古銅」、「堆朱(ついしゅ)類」などといった分類がなされていた。

その当時は内務府の管理のもと、現在の下見会のように、内務府が買付業者を引率して品々を陳列した神武門内の殿内を見せ、買付業者は目録の上に自らが希望する買付価格を記入して内務府に渡すことになっていた。10日後、内務府は景山の西門に設置した事務室で品物の落札価格と取引成立の業者を発表、その後、代金の支払いと品物の受け渡しが行われる。競り落とす品物については、骨董商は市場のニーズに基づいて配分を調整する。競売の中で宋・元の磁器を競り落とせた人は、その1年の商売を心配する必要がないことを意味していた。これらの貴重な宋・元代の磁器については、骨董商は得意客に連絡し品物を見てもらって商談を行い、余った清代の磁器を骨董店の店先に出して売るのだ。

          

清代雍正年間の粉彩牡丹蜻蛉碗

日本文化の多くの源は中国にあるが、美意識という点では大きな隔たりがある。日本で代々蓄積されてきた中国の文物も、日本人がその伝統的な美意識に基づいて選択した「部分的」な「中国文物」であり、日本人が好む「中国文物」と中国の正統な文物との違いはかなり大きい。日本では平安時代に『源氏物語』が生まれたが、この時代は中国のほぼ唐代と平行している。『源氏物語』は日本文学に深い影響を与え、日本文学の基調を築いたとさえ言える。それは“ものの哀れ”の時代の幕開けとなった。いわゆる“ものの哀れ”とは、人と自然との間に避けがたくあり、おのずと生じる奥深い玄妙な情緒である。こうした情緒は日本の古典文化の随所に見られ、注意深く目を配ればすぐに感じ取ることができる。あっさりして哀切のある音楽、緩慢な動きの踊り、枯れた味わいの絵画、侘びさびの境地の庭園……『源氏物語』の影響のもとに日本民族は“ものの哀れ”という性格を形成し、「酒に対(むか)いて当(まさ)に歌うべし 人生幾何(いくばく)ぞ」という人生哲学を好むようになった。

唐代、中国人の茶を飲む風習が日本に伝わった。宋代、とりわけ南宋の時代には両国の海上貿易が盛んになり、宋朝の磁器が大量に日本に運び込まれた。宋代は平板で平易なものが尊重され、文学・芸術では基本的に華麗なものや華美なものは現れず、上から下まで、宋代は実用的な観念に覆われていたが、これは日本で興った“ものの哀れ”と極めて似ている。このような思想は磁器に直接反映され、龍泉窯や吉州天目盞、建窯油滴天目などはいずれも単純な釉の色と簡潔なラインを追求している。そのため、宋磁は当時の京都の平安貴族や茶道、華道の世界でこぞって追求される珍品となったのだ。こうしたものに夢中になる心情は一貫して続き、終始変わることはなかった。

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