しかし、科学技術は投資を必要とするが、投資にはリスクが存在する。 1997年以前は、政府と商工業界は科学技術に投資することに対して興味を持たなかった。黄教授は「時には、『積極的不関与』政策は実際には『積極的不支持』政策です」と語った。彼の話では、1997年以後、状況に変化が生じ、もし金融危機とSARSなどがなければ、情勢はさらにすばらしいものであったであろう、ということであった。
現在、香港特別行政区政府の革新および技術委員会のサポートのもとで、すでにいくつかの進歩が見られることになった。5つの新しい研究・開発センターがすでに運営しており、工業の方向についての研究も始まっている。これらの研究は珠江デルタ地域における香港の工業基盤のグレードアップにとって極めて重要な役割を果たしている。黄教授は、もし香港は珠江デルタ地域ひいてはもっと遠くの地域に溶け込まないならば、より大きな発展をとげることは不可能であり、「香港の発展の将来性は珠江デルタ地域全体の発展に頼るものです」と語った。
この点については、魚屋さんの王炎発さんも同感である。彼は「私も大陸部との間で商売上の付き合いがあり、今では私の標準語も進歩しており、今後は商売をよりよくすすめるでしょう」とし、さらに次のように語った。
「1997年以前においては、私は香港人でした。現在、私は香港に住んでいる一中国人となっています。もしも出国旅行で困難にぶつかるなら、私が何よりもまず思い付くのは、中国大使館・領事館の助けを求めることができるということでしょう」「私は香港の未来に対し自信満々で、私の2人の息子も同じです」。2人の息子さんは、1人はコンサルティング会社で、いま1人はコマーシャル会社に勤務している。若い人たちにとって、香港と中国内陸部との融合は必ずより多くのチャンスをもたらすことであろう。
アメリカ商業会議所総裁のメイサノ氏は香港にすでに25年間も住んでいる。彼は「あなたが2回目この川に足を入れた時、それはすでに異なった川になっていました。香港はずっと変わっており、これも香港が最も人を引きつけるところです」と語った。
さらに正確に言うと、絶えず変化していると同時に安定と予測可能性を保つ香港が彼をこれほど長く引き留めているのである、というのである。少なくとも1つのことに対し、彼は安心できる――そのきらきらと光り輝く港湾はずっとビクトリア湾と呼ばれ、何か別の名称に変えられることはありえないということである。
「北京週報日本語版」 2007年7月2日 |