依然として繁栄を保っている
困難な時は確かに訪れたこともあるが、メディアが予測したようなものではなかった。それは人々の思いがけない形で訪れたのである。香港が中国に返還された翌日、金融危機の嵐が東南アジアを襲うことになった。国際金融界の大物のジョージ・ソロス氏は急速に香港を見守ることになり、香港は彼の「現金自動引き出し機」だと公言した。香港の不動産価格も下落を始め、ひいては半分に下がったものもある。多くの中産階級の家庭は、彼らの資産が債務になったことににがにがしく気づくことになった。その後、サーズ(SARS)は都市全体の人々にマスクを付けることを強いた。鳥インフルエンザのため、いつも食事でニワトリの肉を食べることを習慣としていた香港人の家庭は「器用な主婦でもニワトリの肉のない食事を作ることは難しい」という様相を呈することになった。憂いと悲しみ、苦痛と自信の喪失の時が次々とやって来た。
「最も低迷していた頃に、私の商売も40%減となりました」、「私がやれる事はそれを正面から受け止め、それから更に努力して仕事をするしかありませんでした」と王炎発さんは語った。
香港は別に独自で奮戦するわけではなかった。1998年3月、当時の国務院総理朱熔基氏は、もし必要があるならば、中央政府は「あらゆる代価」を惜しむことなく香港と一緒に金融危機に対応することになろうと公約した。伝えられるところによると、ソロス氏は朱総理の言葉を耳にした時、手にしていたコップを落としてしまった。
香港の経済がSARSの後ほとんど停滞状態にあった時、中央政府は香港との間「内陸部と香港が更に密接な経済貿易関係を確立することについての措置(CEPA)」に調印し、それによって香港の製品とサービス業の市場を拡大した。範徐麗泰香港立法委員会主席が語っているように、「香港のビジネスチャンスには限りがありますが、中国大陸部のビジネスチャンスは無限です。」CEPAは香港のためにこの無限な市場を切り開くことになった。
このほか、「個人観光」プランの実施は大陸部の観光客が香港に赴いて観光やショッピングなどを促し、結果的には香港観光業の繁栄をもたらした。現在、香港の観光客の中で2人のうち1人は中国大陸部から来たものである。
「SARSの後、香港人は金を使う意欲を失いました。大陸部の人たちがやって来て観光し、お金を使うことになった後だけで、香港人ははじめて次第に大胆に買い物をしたり、レストランで食事をしたりすることになりました。CEPAと『個人観光』は香港を救いました」と中国商業総会主席の霍震寰氏は語っている。
香港と中国大陸部の密接な協力は香港経済の発展を促進しているだけでなく、中国大陸部の経済の成長をも促している。中国経済の持続的な発展と中国内陸部の会社の世界の資金に対するニーズの増加に伴って、香港にも内陸部にサービスを提供するチャンスが現れた。現在、香港は国際金融市場の主要なルートと中国会社が国際資金を吸収する際の第1の選択となっている。中央政府は香港銀行への人民元業務を拡大し、しかも大陸部の企業を香港の株式市場で上場するよう奨励している。2006年に、金融市場の歴史においていくつかの最大の新しい株が登場するケースが連続して現れた。2006年10月27日、中国の工商銀行が上海証券取引所と香港取引所で初めて株式を公開し、資金調達額は219億ドルにも達し、世界最大のIPOとなった。
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