生涯傾けた情 香港との縁は解けない
今年は香港復帰10周年。また鄧小平が亡くなって10年になる。こうした格別の年に鄧榕女士は父を偲び、記者に父の一生と香港が結んだ解くことができない縁について、弁舌さわやかに語ってくれた。
「父が初めて香港を経由したのは、1920年、働きながら勉学するためにフランスに行く途上でした。その時はまだ四川省の北部から来たばかりの16歳の青年でした。同級生が当時の印象を記しています。香港は植民地統治の下にあり、青年たちが目にしたのは、中国人は不幸に遭って、苦しい生活を送っているという情景でした。それはどの中国人にも恥辱を感じさせる、という印象の強いものでした」
その後、革命のために、再び鄧小平は何度も香港を通り、理解を深めた。新中国建国後は、逆にずっと香港の土地を再び踏む機会はなかった。鄧榕女士は「香港問題の解決に当たって、父は精力と苦心、労力、知恵を傾けました。とくに『1国2制度』の構想は、非常に偉大で、知恵に溢れた試みだったと言えるでしょう」と感慨深げに語った。
「現在振り返ってみると、香港が安定して復帰されたのは必然的な結果ではなく、数多くの変数があったのです。当時の交渉は難しい時がたびたびあり、膠着状態にも陥りました。当初、英国は自ら進んで香港を手放そうとはしなかったのです。中国にとっては、どんな形で香港を取り戻すかが、大きな政治的問題、国際関係の問題でした」
鄧榕女士の当時の熾烈な闘争への記憶はとくに新鮮だ。「10年が過ぎ、恐らく多くの人が香港の安定した復帰は当然だったと感じているでしょう。でも、当時、英国人は統治権の延長を求め、また軍駐留の問題でも私たちとは考えが大きく異なっていました。ですから、平穏に香港を取り戻す、平穏に移行するというのは決して必然的な結果ではなく、闘争を含めてですが、多くの難しい交渉を経てきたものだったのです。私たちの立場は非常に鮮明で、彼らの不合理で、時代にそぐわない要求はあくまでも排除しました」
鄧榕女士は「英国は交渉前、『主権と統治権を交換する』ことで問題をほじくろうとしていました。でも意外なことに、父は主権といった原則にかかわる問題では一歩も譲ろうとしなかったので、英国側も非常に意外に感じました。サッチャー夫人が最近回想しているのは、まさにこの間の歴史に関するものです。退任後、私は彼女を訪ねたことがあります。彼女は父と触れ合った情景について語り、父を非常に敬服すると話していました」と回想する。
「まさに数えきれないほどの苦しい交渉と努力を経たことで、最終的に、香港の人びと含む広範な中国人民、ないしは世界の人びとが認める『1国2制度』という、知恵に溢れた着実に実行可能な構想を土台にして、私たちは平和的にかつ安定的に、円滑に香港を取り戻すという偉大な壮挙を実現したのです」
「父は確かに香港問題で心血を注ぎ、不滅の貢献をしました」。鄧榕女士は飾ることなく、また客観的に「でも、香港復帰は私たち全中華民族の大きな出来事であり、長い歴史の過程を経たもので、決して1個人が達せられることではなく、全国の人民が支持する中で、何回もの交渉とさまざまな形の外交努力を経たもので、多くの人がそこに参加した巨大な作業だったのです」と語った。そのうえで「父は香港問題にずっと関心を寄せ、長い間考え続け、当時の中央の指導者や主管する指導者と会議を開くなど、話せば数え切れないほどです」と明かしてくれた。
鄧小平の書斎には、さまざまな香港の地図や香港関連の資料があるという。「香港問題は政治や経済、軍事、社会、法制、地政治学、国際関係など各方面に関係しているので、父は香港問題を解決するためにいろいろな本に目を通していたほか、さまざまなルートを通じて香港の状況を理解していました。毎日、多くの海外ニュースを見、多くの香港紙を予約し、内部で参考にするものもずっと多かったですね」
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