蒋効愚氏は「懸念があるにもかかわらず、安心感もある。中央政府の全力を挙げてのサポートと広範な民衆の情熱のこもった参加は、私と私の同僚たちに最も安心感をもたらしてくれている」と語り、さらに次のように述べた。昨年の中華人民共和国成立57周年記念日であった10月1日に、胡錦涛国家主席は北京五輪施設の建設現場に赴いて祝日の期間においても働き続けている建設者たちを見舞った際に、現在オリンピックの準備作業はすでにカギとなる段階に入り、「『グリーン五輪、科学技術の五輪、人文の五輪』という理念を適切に実行し、節約と清廉潔白にオリンピックを運営する方針を堅持し、私たちが五輪を招致した時におこなった公約を確実に履行し、良質で期日どおりに各建設任務の完成を確保し、準備作業の国際化レベルを高めるよう努力しなければならない」と語った。
蒋効愚氏はまた例を挙げて、開幕式の案を募集する過程において、彼は早い時期にある北京に出稼ぎに来ている若者の設計案を受け取ったことがあり、「それは非常に詳しく、今でも私のテーブルの上に60数ページに達するその設計案が置いてある。人々の各方面からオリンピックに参加する情熱と意欲もなかなかなもので、私達はできるだけこの人たちの見方と提案を知るように努め、それを入手しなければならない」と語った。
取材の中で、記者は蒋効愚氏が自分と同僚たちの努力によって世界の人々に満足してもらえる答えを出すことを望んでいるという印象を強く感じた。
この地に生まれ、この地で育った北京人として、蒋効愚氏は自分が北京五輪の組織者の1人として指名されたのは「まことにラッキーなことだ」とつねに感じている。1979年、中国は20年余りの努力を経て、ついにオリンピックの大家庭にカムバックし、その時彼は初めて「オリンピック」という言葉を耳にしたのであった。彼の話では、それから25年後に、オリンピックが自分の生涯における最も重要な事業となったことは確かに思いもしなかったことである。
「私は幼い時からスポーツに興味があった」と蒋効愚氏は語った。1961年、13歳の彼は最も著名な中学の1つである北京第4中学校で勉強していた際に学校のバスケットボールチームのメンバーに選ばれ、この北京市中学の優勝チームの主力メンバーとなった。「高校に入った後も学校チームのメンバーであったが、より多くの時は『補欠』選手であった。」その後、北京師範学院を卒業し、前後して北京市文化局局長、中国共産党北京市委員会宣伝部部長のポストについたことがある彼にとって、オリンピック組織委員会で仕事をするのは明らかに水を得た魚のごとしである(第29回オリンピック組織委員会副主席のポストのほかに、新聞広報部長を兼任したこともある)。
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