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丹羽大使、日本人残留孤児の養父母に感謝状 | |
6月1日、丹羽宇一郎日本大使は、大使館で行われた日本人残留孤児の養父母感謝状授与式に参加した。丹羽大使は日本政府を代表し、日本が中国に行った侵略戦争の後、残された日本人孤児を養い育ててくれた養父母へ感謝状を手渡した。恨みを乗り越えて、異国に置き去りにされた日本人の子供に「二度目の命」授けてくれたと感謝した。
「1941年、私と三人の兄弟は開拓団に参加した父母とともに中国に渡りました。戦争末期には、6人家族で私だけが残されました。飢えと病気ですでに虫の息だった私を養父母は助けてくださり、二度目の命を授けてくださいました。」式典に参加した王林起さん(日本名 渡部宏一さん)は1945年の夏の終わり、瀋陽ですごしたときのことを思い出しながら、何度も嗚咽をこらえた。彼の傍らにいた銀髪の老人は中国の養父母、今年89歳になる賈鳳朝さんだ。
あの夏の終わり、東北に残されていた余作民さん(日本名 真真田豊彦さん(79歳))、張国安さん(日本名 山中重一さん(73歳))と孫生華さん(日本名 佐々木慶子さん(67歳))の三人は、東北の農家でそれぞれ中国人の子供となった。経済が極度に逼迫していた1950、60年代、彼らの中国人養父母は心血を注いで、自分の子供が増えたと思い養ってくれた。政治闘争の時には「日本人をかくまった」という罪を着せられ、子供を自分の後ろに隠して助けた。1972年の国交正常化を迎え、中日両国政府はこの日本人残留孤児の肉親探しに着手し、残されていた子供たちはやっと故郷に帰ることができたのだ。
「1981年、私は始めて日本に行きました。行く前に養母は私に「お前がこの家でしなければならないことは全部終わっているのだから、日本で落ち着いていいんだよ。」といってくれました。」と王さんはいう。だが、日本で1年1ヶ月を過ごし、彼は中国に帰ってきた。「私は小さい頃から日本へは戻らないと決めていました。ここが私の家だからです。」余さん、張さん、孫さんの3人も同じだ。何度も日本へ肉親探しに出かけたが、やはり養父母のもとに戻ってきた。お年寄りの面倒を最後までみたいという。
丹羽日本大使は、賈さんと他の三人の養父母に対し、養ってくれた孤児を代表して日本政府からの感謝状を一人一人に読み上げた。中国に残っている日本人孤児の方にお会いし、「優しく、慈悲深い」中国の皆さんが恨みを乗り越えて、自分の子供のように孤児たちを育ててくださったと、「この気持ちは一生忘れません。」と語った。丹羽大使は済南から戻ったばかりで、済南でも3人の養父母にも感謝状を手渡したという。 「感謝状は郵送できないものですから、手渡さなければ。これからも中国の20ヶ所以上の地域へ行って、この感謝状を一つ一つ手渡したいと思っています。」と語った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年6月2日
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