前書き
釣魚島およびその付属島嶼は、中国の領土の不可分の一部である。歴史、地理、法理のいかなる角度から見ても、釣魚島は中国固有の領土であり、中国は釣魚島に対して争う余地のない主権を有している。
日本が1895年に甲午戦争(日本では日清戦争という)を利用して釣魚島を窃取したことは不法かつ無効である。第二次世界大戦後、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』などの国際法律文書に基づいて、釣魚島は中国に返還された。日本は釣魚島に対していかなる一方的な措置をとっても、釣魚島が中国に属する事実を変えることはできない。長期にわたり、日本は釣魚島問題をめぐってたえず紛争を引き起こしてきた。2012年9月10日、日本政府は釣魚島および付属の南小島、北小島の「購入」を宣言し、いわゆる「国有化」を実施した。これは中国の領土主権に対する重大な侵犯であり、歴史的事実と国際法理を甚だしく踏みにじるものである。
中国は、日本のいかなる方式による釣魚島に対する中国主権の侵犯にもあくまで反対し、それを食い止めていく。釣魚島問題における中国の立場は明確で、一貫しており、国家主権および領土保全を守る意志は確固たるものであり、世界反ファシズム戦争の勝利の成果を守る決意はいささかも揺らぐことはない。
一、釣魚島は中国固有の領土である
釣魚島およびその付属島嶼は中国台湾島の東北部に位置し、台湾の付属島嶼であり、東経123°20′�・124°40′、北緯25°40′-26°00′の間の海域に分布している。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島、南嶼、北嶼、飛嶼などの島礁からなり、総面積は約5.69平方キロである。釣魚島は同海域の最西端に位置し、面積は約3.91平方キロ、同海域で最大の面積を有する島であり、主峰は海抜362メートルである。黄尾嶼は釣魚島の東北約27キロの位置にあり、面積は約0.91平方キロ、同海域で二番目に大きな島であり、最高海抜は117メートルである。赤尾嶼は釣魚島の東北約110キロに位置し、同海域最東端の島で、面積は約0.065平方キロ、最高海抜は75メートルである。
(一)中国が最も早く釣魚島を発見し、命名し、利用した
中国の先人は海洋経営と海上の漁業に従事してきた実践において、最も早く釣魚島を発見し、命名した。中国の古代文献では、釣魚島は釣魚嶼、釣魚台ともよばれている。現在見つかっている範囲で、最も早く釣魚島、赤尾嶼などの地名を記載した史籍は、1403年(明・永楽元年)に完成した『順風相送』である。これは、早くも14、15世紀に中国はすでに釣魚島を発見し、命名したことを示している。
1372年(明・洪武5年)に、琉球国王は明朝に朝貢し、明太祖は琉球へ使節を派遣した。1866年(清・同治5年)までのほぼ500年間に、明・清2代の朝廷は前後24回にわたり琉球王国へ冊封使を派遣し、釣魚島は冊封使が琉球に行くために経由する地であった。中国の使節が著した報告には、釣魚島に関する記載が多く出てくる。例えば、明朝の冊封使・陳侃の『使琉球録』(1534年)によれば、「釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を過ぎ、…古米山を見る、すなわち琉球に属する者なり」とあり、明朝の冊封使・郭汝霖の『使琉球録』(1562年)によれば、「赤嶼は琉球地方を界する山なり」とあり、清朝の冊封副使・徐葆光の『中山伝信録』(1719年)には、福建から琉球へ行くには、花瓶嶼、彭佳嶼、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼を経て、「姑米山(琉球西南方の境界にある鎮山)、馬歯島を通り過ぎ、琉球の那覇港に入る」とある。
1650年、琉球の国相・向象賢の監修した琉球国最初の正史『中山世鑑』には、古米山(姑米山ともいう、現・久米島)は琉球の領土であるが、赤嶼(現・赤尾嶼)およびそれ以西は琉球の領土ではない、とある。1708年、琉球の学者・紫金大夫程順則の『指南広義』には、姑米山は「琉球西南方の境界にある鎮山である」とある。
以上の史料は、釣魚島、赤尾嶼は中国に属し、久米島は琉球に属し、境界線は赤尾嶼と久米島の間の黒水溝(現・沖縄トラフ)にあるとはっきり記している。明朝の冊封副使・謝傑の『琉球録撮要補遺』(1579年)には、「往路は滄水より黒水に入り、帰路は黒水より滄水に入る」とあり、明朝の冊封使・夏子陽の『使琉球録』(1606年)には、「水は黒水を離れ滄水に入る、必ずやこれ中国の境界」とあり、清朝の冊封使・汪輯の『使琉球雑録』(1683年)には、赤嶼の外の「黒水溝」こそ「中外の境界」であるとあり、清朝の冊封副使・周煌の『琉球国誌略』(1756年)には、琉球について「海面の西は黒水溝を隔て、�罨海と境界をなす」とある。
釣魚島海域は中国の伝統的な漁場であり、中国の漁民は子々孫々同海域で漁業を営んできた。釣魚島は航海の目印として、歴史上中国の東南沿海の民衆に広く利用されてきた。
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