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北京週報>>文化・科学・観光  
中国と縁の深かった高倉健さん

 

「君よ憤怒の河を渉れ」のポスター

日本映画界の中心スターとして活躍した俳優で文化勲章受章者、高倉健さんが10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去した。同ニュースが18日に明らかになると、中国のネットユーザーからは、「日本に対しては反感を抱いているが、高倉さんは、私の好きな数少ない日本の実力派俳優の一人。お悔やみ申し上げる」などの声が寄せられた。同メッセージは、中国の映画ファンの心の声を代表している。日本という国に対してはさまざまな見方がある中国で、多くの人に愛された高倉さん。その人気の秘訣は、男らしい外見だけでなく、卓越した演技と、中国に対する誠実な思いだった。

「君よ憤怒の河を渉れ」で中国人の心を鷲掴み

1978年、文化大革命(1966-76年)後の中国で初めて公開された外国映画が高倉さん主演の「君よ憤怒の河を渉れ」だった。同映画は、中国でも爆発的大ヒットとなり、高倉さんは一躍大スターとなった。

当時、数年前まで文化大革命の嵐がふき荒れていたため、多くの中国人が精神的に「ホッとしたい」という思いでいっぱいだった。同映画で、高倉さんは、寡黙で男らしい検事・杜丘冬人を演じ、若者の間であこがれの的となった。当時、紡績工場で働いていたという、中国の巨匠・張芸謀(チャン・イーモウ)監督も、杜丘を見て、シャツの襟を立て、口数を減らすなど、真似をしていたという。張監督はその後、工場を辞めて、北京電影(映画)学院に入学した。

高倉さんは、中国の男性映画スターのイメージにも大きな影響を与えた。1970年代、中国のテレビや映画で人気となったのは、色白の若い俳優だった。「君よ憤怒の河を渉れ」で高倉さんが演じた寡黙で毅然とした杜丘が、中国の映画に変化をもたらし、「もてる男性」のイメージも確立したのだ。

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