鑑真記念堂脇に設置された梁思成の銅像
◇頓挫した梁思成銅像の設置◇
梁思成は第二次世界大戦中、奈良と京都を空爆しないよう米軍に進言して、古都の文化財を守った、とされることから、「平城遷都1300年祭」の関連イベントとして奈良県に寄贈され、建立する予定になっていた。銅像が完成した昨年6月、北京で開かれた披露式典に窪田修・奈良県副知事が出席し、「梁先生は奈良県を守ってくれた恩人」と感謝の言葉を述べていた。
しかし、空爆を回避して文化財を守ったという歴史的事実が明確でない、という意見が奈良県当局に寄せられ、寄贈に反対する声が出てきた。
このため、同県の荒井正吾知事も8月の記者会見で、「梁思成さんについては、中国国内とともに、京都、鎌倉、奈良への空爆を回避してほしいと、当時の在中国米軍に進言したという証言をされている人がいることは認識している。結果的にそれが奈良への爆撃回避につながったかどうかは、県としては確たることは言えるわけではない」と述べ、銅像の受け入れを慎重に検討することを表明していた。その結果、昨年暮れになって銅像の受け入れを断念し、奈良県文化会館の敷地に銅像を設置する計画も白紙になってしまった。
銅像の設置については、2008年に中国側が奈良県に銅像の寄贈を申し入れ、日本画家の平山郁夫さんらが顕彰会を設立して、寄付金を募って検討してきたが、「日中関係の悪化などもあり、最終的に顕彰会が断念、寄付金約200万円の返還を始めた」(2010年12月26日、読売新聞)という。
ふくらみかけた文化交流の蕾が、途中で頓挫してしまうのは残念だ。「史実が明確でない」というのなら、確認すれば済むことだ。「地図に印をつけて爆撃を回避するよう米軍に進言した」という証言もあるのだから、その証言を検証すればいい。あるいは県が米軍関係者に調査してその地図を探せばいい。県と中国側が共同調査研究委員会などを組織して、史実の解明にあたる方法もあるのではないか。その結果、史実を証明するものが出て来なかった、との結論に達してから、銅像の設置を取りやめることにしても遅くはない。
北京で開かれた梁思成の銅像披露式典に副知事を派遣しながら、奈良、京都を空爆から守ったとすることを「県としては確たることは言えない」まま、放置してしまうのは、なんとも中途半端で残念なことだ。「1300年祭」の行事の中で、60数年前の事実を解明することは、その気になればできないことではないと思う。
メディア側の報道も、和上の里帰りを表面的に伝えるだけでなく、迎える地元市民の歓迎ぶりや反響など全体像をとらえて報道してほしい。梁思成についても、事前に史実を調査して和上の里帰りと合わせて報道すれば、日中文化交流に貢献した2人の足跡もより鮮明になると思う。どのような報道でも、事実関係の取材をする前に、関連する事柄を前もって“予習取材”しておくことは当然のことだ。突発的に発生する事件、事故、災害などでも、日ごろからその種の資料を整理しておくことや、事前に目を通しておくことも必要だ。和上像の里帰りは事前に予定されていたことでもあり、その時間は十分にあったはずだ。
とすれば、鑑真記念堂の石灯籠についても、3年前の関連した事実についても気が付くはずである。
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