斎藤文男(南京大学日本語学部専家)
中国・揚州市の大明寺に2010年11月、鑑真和上(688~763年)が30年ぶりに“里帰り”した。上海・万博の日本館に展示されていた日本・奈良県の東大寺所有の和上木造坐像(1733年、国重要文化財)が、日本に帰国する前、故郷の大明寺に寄り、公開された。大明寺には中国の著名な建築家・梁思成(1901~1972年)が設計した鑑真記念堂がある。梁思成の銅像は和上像が里帰りする1カ月前の昨年10月、大明寺境内に設置され、“2人”が初めて対面した。しかし、日本の報道メディアは、和上像の里帰りを華やかに伝えていたが、梁思成についてほとんど触れていなかったのは残念だった。
鑑真和上の里帰り展が開かれた大明寺境内にある鑑真学院図書館
◇並々ならぬ鑑真和上の精神◇
鑑真和上像の里帰りは、唐招提寺の脱活乾漆(だっかつかんしつ=土や石膏で原型を作り、その上に麻布を数枚漆で塗り重ね、乾燥させて中の原型を抜く方法)坐像(8世紀、国宝)が、1980年4月に初めて里帰りして以来2回目になる。
公開は11月26日から12月7日までの12日間と短い期間だったので、私は期末試験の準備や、授業の合い間を縫って揚州へ出掛けた。里帰りした鑑真和上像は大明寺境内に造られた鑑真学院図書館内のガラスケースの中に安置されていた。両脇に僧侶が立ち、写真撮影は禁止され、数メートル離れた場所から見るだけだった。
1257年前、10年間の歳月をかけ、6回目の航海でやっと日本にたどり着いた鑑真和上の精神と日本への思いは、一体どのようなものであったのだろうか。海を越えた遥かかなたにある日本に赴かせた動機は何なのだろうか。そんなことを考えながら、ガラスケースの前にしばらく立ち止まっていた。
当時の中国人から見た日本は、盛唐の詩人・王維が阿倍仲麻呂に送った「秘書晁監(ちょうかん)の日本に還るを送る」と題する詩の中に見られる。
「積水(せきすい)極むべからず 安(いずく)んぞ知らん滄海の東 九州何れの処(ところ)か遠からん 万里乗(じょう)ずるが若(ごと)し」
大陸の奥深くにある唐王朝の都・長安からみれば、海は地の果てである。「その海の向こうのさらに東の国ことなど、どうしてわかるだろうか」と案じている。
このような“恐怖”に満ちた海を超えて日本の島へ行こうと決意した鑑真和上の精神には、並々ならぬ強い意志があったのだろうと、和上の坐像を見ながら改めて感じた。
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