ダライ・ラマと西側の支持者は長年、大多数の西蔵(チベット)人民の解放、チベット経済・社会の著しい発展を誹謗し、暗黒の後れた旧チベットを「ロマンチック」な、「自由に満ちた」、「ユートピア」のような場所だと表現している。旧チベットの農奴制はどのようなものなのか?人口の大多数を占める農奴らは農奴制のもとでどのような「人権」と「自由」があったのか?
中国国家資料局は3月8日、チベットの平和解放前に農奴の交換・売買に使われていた契約文書5枚を公開した。ここから旧チベットの人民の苦難が解読できる。
今回公開された一枚の「1914年にチベット農奴主・吉康巴が母娘4人を別の農奴主・然巴の借金の肩代わりとする契約」の中で、「吉康巴は貴族の然巴に借金した軍費を返済できないため、属民である曲増卓瑪の母娘4人を借金の弁済にあてる。母娘4人は本日から完全に然巴に属する。この規約に違反した者は処罰を受け、契約の内容に基づき処分される」と記されている。
また、哲蚌寺(デプン寺)に保管してあった別の契約では、チベットの哲蚌寺がその所属の魯多荘園の女農奴4人とその子孫を、同じく哲蚌寺所属の森貢荘園の男農奴3人とその子孫と交換する状況が明らかにされている。契約には「森貢荘園代理人と魯多荘園代理人の話し合いによって、魯多荘園に住む女賎民の多吉旺姆、卓瑪拉宗、布赤、拉宗とその子孫を、森貢荘園に住む男賎民の白措、洛桑、多吉の3人及びその子孫と交換する」と書かれている。
この二枚の契約は、農奴取引の過程だけでなく、旧チベットの農奴には少しも身の自由がなかったという事実を証明している。この時代チベットでは農奴と奴隷が人口の約95%を占めていた。チベットではわずか5%の封建農奴主らがぜいたくな暮らしをし、大部分の土地と資源を占領し、農奴や奴隷を商品のように取引し、強制労働させ、字や数字の読めない農奴を騙して一生返済できない高利貸しなどを貸し付けていた。このような制度は封建農奴主からすると当然「言いようのない」、まるで天国のような自由に違いない。もし本当にいわゆる「自由なチベット」があるとすれば、それは封建農奴主にとってにすぎない。この「すばらしい」制度と彼らの「自由」を永久に維持するため、彼らは1959年に全面的な武装クーデターを起こしたのだ。
今年はチベット民主改革50周年にあたる。チベット自治区人民代表大会は、チベットの新たな歴史を切り開き、同時に人類史上にも記録される、この偉大な事件を記念するため、「チベット100万人農奴解放記念日」の設立を決定した。しかしダライ集団はあの手この手を使って、この記念日は「中国共産党のやり口」「チベット人への新たな侮辱」だと非難を浴びせ、民主改革によって「チベット人はこの世の地獄のような苦難を味わっている」と攻撃している。容易に見て取れるように、ダライ集団は過去のチベットを「自由なチベット」と主張することで、当時の農奴100万人に対する残酷な統治や権力乱用の暗黒な歴史を覆い隠し、「すばらしい」制度と「自由なチベット」が再び戻るのを幻想しているにすぎない。誰もこのようなウソの演技は信じやしない。
「人民網日本語版」2009年3月20日
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