四、異なる「奴隷廃止」への道、収めた異なる成果
指導者が異なれば、奴隷制廃止の目的も異なる。チベット地区と欧米の「奴隷廃止」がもたらした結果にも大きな差がある。
英国の農奴制廃止運動は持続的かつ徹底したものだったが、その後に確立されたのは君主立憲制だった。フランスは農奴制廃止後、ブルジョアジーが勝利したものの、栽培園の奴隷から工場労働者になっても、奴隷のように酷使される境遇はまったく変らなかった。
ロシアでは、「奴隷廃止」後も封建農奴制の残滓が色濃く、身代金は非常に高く、夫役の時間もかなり長かったことから、農民は依然として悲惨な境遇に置かれた。1861年の1年間に農村では計2034件にのぼる暴動が発生している。1917年の「10月革命」に至って、農奴制はようやく完全に消滅した。
米国では、南北戦争と奴隷制の廃止により、資本主義の発展に向け道が開かれ、その後の米国経済の急速な飛躍の基礎が築かれた。しかし、リンカーンは奴隷制の廃止は黒人に同等の公民権を享受させることはできなかったと宣言。事実、米国の人種差別は50年代まで続き、今なお完全には消え去ってはいない。
チベットでは、1959年3月にチベット上層部の領主集団が発動した武装反乱が鎮定された後に改革が始まった。反乱領主に対しては没収を実施し、反乱に参加しなかった領主に対しては買い戻し政策を実施。当時は平穏な移行が行われ、さらにその後に民主主義革命を終え、社会主義の道を歩み出した。チベット人民は全国の各民族人民と同様に、真に社会の主人となった。1965年9月、チベット自治区が正式に成立し、チベット人民は地方の問題を自主管理する権利を十分享受できるようになった。思想やイデオロギー分野で、封建農奴制を廃止した後のチベットは、チベット仏教の神学の思想に統一された状況を改めたことで、人民大衆の精神状態に極めて大きな変化が生じた。これはロシア、米国の「奴隷廃止」運動と比較できないものである。宗教を信仰する大衆にしても、確かに人びとが言うように、「政教一致」の農奴制が消滅してこそ、人民は真に宗教信仰の自由を持てる可能性があるのである。
五、内外の「奴隷廃止」の歴史、その再考と啓示
2005年、米国はバージニア州に初の奴隷制博物館を建設することを決定した。06年5月10日、仏シラク大統領はパリのルクセンブルク公園で式典を主宰し、フランスの奴隷制廃止を祝うとともに、毎年5月10日を、奴隷制廃止記念日にすることを確定した。07年8月23日、英国の「奴隷の港」リバプールは「奴隷廃止」200年を記念した。08年7月29日、米議会は初めてかつて奴隷制を実施したことを正式に謝罪した……。これらは、人類はすでに農奴制、奴隷制の歴史の一頁をめくったが、この歴史は依然として回顧するに耐えない共通の記憶であることを物語っている。
農奴制の廃止は人類史の一大進歩であり、今日の人びとはその歴史から遠ざかったものの、逆に農奴制復活という悪夢の脅威からは遠ざかってはいない。今日、ダライラマ集団は依然として旧チベットの封建農奴制を賛歌している。人と自然が調和し一体化された天国――「シャングリア」だと語り、政教一致の封建農奴制を「一種の仏教を基礎にした、高尚さと利他的さを備えた制度」だと呼び、領主の農奴に対する残酷な搾取をチベットの文化的特色だと美化することで、歴史の恥を覆い隠し、人を惑わせようとしている。
内外の「奴隷廃止」の歴史を比較した場合、半世紀前に起きた百万の農奴解放は20世紀の中国、ないしは全人類の「奴隷廃止」の歴史で画期的な意義を有する偉大な出来事の一つであり、永遠に記念する価値がある、と確信する理由が私たちにはある。
(中国藏学研究中心研究員 張雲)
「チャイナネット」2009年2月27日
|