二、20世紀の人類の「奴隷廃止」運動
50年代に中国がチベット地方の封建農奴制を廃止したのは、人類の「奴隷廃止」運動を引き継いだものであり、20世紀の人類の「奴隷廃止」運動における一つの高潮でもあった。
世界的範囲から眺めれば、奴隷制と封建農奴制の廃止は人びとを最も感動させた偉大な運動の一つである。1807年3月、最も早く産業命を実現した英国は大英帝国内での奴隷売買を違法とした。1833年8月には、英国植民地の奴隷制を違法だと宣言。フランスの第一共和国は1794年2月に「奴隷廃止」を正式に宣言し、第二共和国も1848年4月に再び奴隷制を廃止……。人間性と人道、人権を旗印に、「奴隷廃止」運動は社会の発展と進歩に向け力強い力を与えてくれた。
欧米では、最後の砦も1860年代に攻め落とされた。
ロシアの改革は、アレキサンダー皇帝2世が実行し、1861年2月19日に農奴制廃止に関する宣言に署名した。米国の「奴隷廃止」運動は、1862年9月22日にリンカーンが発表した「独立宣言」で大きなうねりを迎え、翌年1月1日から米国の400万人の黒人奴隷を解放すると宣言。1865年12月18日、南北戦争で北軍が勝利して終結すると、米国は徹底して奴隷制を廃止させた。
チベット農奴制は、1959年3月のチベット上層部反動集団が発動した武装反乱の鎮定後に終結し、中国政府は6月から民主改革を実行した。農奴や奴僕と領主との従属関係を廃止し、反乱に参与した極めて少数の貴族や僧侶、領主の財産をすべて没収、その総数の98%を占める反乱に参加しなかった領主、貴族、僧侶に対しては、彼らの生活水準が改革前を下回らないことを前提に、余分な土地などの生産財を買い戻し、没収した財産とともにすべてを過去の農奴に分与した。数百年に及ぶチベットの封建農奴制は廃止され、百万の農奴は歓喜し、かつて噶厦噶倫(グシャグルン・チベット地方政府の役人)を務めた有識者のアペイ・アワンジンメイも「民主改革は農奴を解放し、生産力を解放したのみならず、チベットそのものを救ってくれた」と感嘆した。
三、同じ「奴隷廃止」、異なる実現の道のり
チベット地方の政教一致封建農奴制の廃止は英国、フランス、ロシア、米国の農奴制、奴隷制廃止と同様、社会制度に根本的な変革をもたらした。注視するに値するのは、チベット地方がそうした「奴隷廃止」運動の中で、異なる歴史過程を経ているということである。
先ず、時間的に見れば、チベットの「奴隷廃止」は、大英帝国(1833年)やフランス(1848年)、ロシア(1861年)、米国(1865年)に比べると百年近くも遅れていることだ。チベットの封建農奴制の存在期間はさらに長く、その暗黒さや立ち遅れ、反動性はより明らかである。
次に、農奴制廃止の主導力が異なることだ。ロシアの「奴隷廃止」は君主のアレキサンダー2世が、新興ブルジョアジーが勢力を増し、農奴が絶えず抗議を引き起こし、社会の進歩派インテリが積極的に提唱し、またクルミア戦争で失敗したことが刺激となって主導した。米国の「奴隷廃止」はブルジョアジーの領袖が指導し、奴隷制に反対するキリスト教関係者が幅広い「奴隷廃止」を求める大衆の大きな協力を組織して推し進め、また南部の奴隷が暴動を起こしたことなどで促された。チベットの「奴隷廃止」は、封建農奴制領主による反動的な武装反乱の中で、中国共産党員に民主革命の実現という偉大な使命を担って欲しい、という百万に及ぶ農奴の求めに応え、中央人民政府の指導の下で達成されたものである。
第3に、「奴隷廃止」の方法や取り組み方が異なることだ。中国の「奴隷廃止」は平和、民主的な方法で進められた。一方、フランスやロシア、米国などは暴力的な手法で実現した。米国の「奴隷廃止」の英雄、ジョン・ブラウンは正義のために亡くなる直前、遺言を残した。「わたし、ジョン・ブラウンはいま、鮮血をもってこそ、この罪ある国土の罪悪を洗い流せると強く信じている」
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