中国のチベット地方は20世紀中葉までずっと政教一致の封建農奴制の統治下にあった。それはどんな制度だったのか。19世紀と20世紀上半期にチベットに入った西側の宣教師や探検家、植民者は次のように描出している。
フランスの旅行家、アレキサンダー女史はその著作『古老チベットが直面する新生中国』の中で、「チベットでは、すべての農民は終身、債務を負う農奴であり、彼らの中に債務をすでに返済した者を探し出すことはできない」と記している。一方、1920年代にチベットで英国の商務代表を務めたマイクタナー氏は『チベットの写真』にこんなふうに記載している。「チベットで最も重い刑罰は死刑である……。およそ死罪に遭えば、罪人を皮袋の中に縫い込め、河に放擲し、死を引き延ばすために沈めさせ、皮袋は表面に上がると、およそ5分後には下降し始め、後にまだ生きていると見るや、再び投げて沈め、死に至ったところで、遺体を皮袋から取り出して切断し、四肢と胴体を河に投げ込み、流れとともに去っていく……。生きることはできても、さまざまな障害が残る。切断のほか、眼球をえぐる極刑や、凹型に熱い鉄を眼内に入れたり、煮えたぎる油やお湯を眼内に流し込んだり、いずれも視力を失わせるのに足るものであり、そして眼球を鉄のかぎでつかみ出す……。その本源は損なわれ、喪失する。犯罪者や容疑者は、常にじっとりして暗く、不潔な衛生的ではない土牢に拘禁され、永遠に天日を見ることはない」
19世紀に至り、世界の大多数の国・地域で農奴制はすでに歴史となっていたが、チベット地方では政教一致の封建農奴制は1959年になってようやく消滅した。
一、封建農奴制の末路
人類史上、比較的典型的な農奴制があったのは西欧であり、一方、農奴制を廃止、農奴制が比較的遅く見られたのはロシア、米国である。ロシアの農奴制は15世紀下半期から19世紀上半期まで存在し、米国の農奴制は主に南部に存在し、黒人奴隷の売買・輸送により形成されていった。しかし、欧米と比べ、20世紀中葉前のチベット地方の政教一致封建農奴制の暗黒さと残酷さはその比ではなかった。
例えば、当時のロシア帝国の法律の規定によれば、領主は農民の財産や婚姻など、家庭の問題に関与する権利を有していた。一方、旧チベットでは、領主は随意に農奴の財産を剥奪できるばかりか、農奴本人及び彼らが産んだ子女までもが主人の財産となり、随意に処理することができた。チベット総人口の95%以上を占める農奴と奴隷に、人身の自由はなく、農奴の子女は生まれれば、終身農奴として登記される。領主が異なる男女の農奴が結婚するには、「身請け費用」を納める必要があり、男性と男性、女性と女性を交換する方法、男子を産めば夫の側の領主に、女子を産めば妻の側の領主に属するなど、その身分が変わることはなかった。
1649年のロシア帝国の『法律全書』は、封建領主は法廷で自己の農民に対し全責任を負い、領地内において農民に判決を下し、鞭を打ち、拷問し、足かせや手かせをはめ、鎖につなぐ権利を有すると規定している。チベットでは、農奴に対して眼球をえぐる、耳を裂く、手を切断する、足を切り刻む、体の筋を引き抜く、水をかけるなど、あらゆる限り極端な手段を取り、その残酷さはまさに上述した西洋人が描き出しており、世に大量に残るチベット語文献のこれに関する記載はより明確だ。このように残酷かつ野蛮な制度に対し、チベット地区では過去に3度、社会をあげて改革を要求するうねりが盛り上がった。
1度目は18世紀末から19世紀初め。この改革は清朝皇帝が権限を授けたチベット駐在大臣が指導し、ダライラマとパンチェンラマのオルドス及びその管轄する地方機関が具体的に実行した。主に差役の軽減、流浪農奴への宣撫、貧困の救済、生業の回復などを要求しある程度、民を楽にすることはできたが、農奴制自体には触れなかった。
2度目は、清朝末年にチベット駐在大臣の張荫棠らが推し進めた新政治である。関連する措置はチベット地方の封建農奴制の本質に触れてはいたものの、清朝が零落の途にあったため、この改革も終わりを余儀なくされた。
3度目は民国時代の、チベット地方の政治・宗教の首領である13世ダライラマが推し進めた「新政治」である。ダライラマはチベットの封建農奴制が直面している極めて大きな危機を意識し、改革することで農奴制の滅亡を回避しようと期待した。しかし、13世の改革が遭遇した抵抗は改革を推進する原動力をはるかに上回り、しかもダライラマ本人も農奴制自体を揺るがす勇気も気力もなく、この改革も同様に失敗の運命に帰した。
旧チベット地方に社会あげての改革が出現しなかったことは、三大領主階級が頑迷で保守的、反人民的であった本質を十分に暴露している。そうした改革がなされなかった源は、政教一致という制度による極端な管理にある。
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