1959年に実施され始めた民主改革は、チベット現代史上の大きな出来事である。それはチベットの発展と進歩にかかわり、チベットの人口の圧倒的多数を占める百万の農奴が暗黒な封建農奴制の束縛から解放され、チベット社会の主人公となることができるかどうかにかかわっている。歴史が立証しているように、チベット民主改革は広範なチベット人民の利益に合致する、人類の人権獲得史上の壮挙である。
民主改革を実行するのはなぜか
10世紀に吐蕃王朝の奴隷制政権が崩壊した後、チベット社会は封建制度に移行し始めた。13世紀前後に、農奴制はチベットで一応形成された。13世紀中葉にチベット地方は全国を統一した元朝政権に帰属し、チベット地方の首領は中央王朝から世襲の職位を授けられ、領主制はさらに強化され、強固になった。
旧チベットは等級の厳格な社会であり、社会は農奴主と農奴という二大等級に分けられていた。人口の約5%を占める農奴主(主として寺院、貴族、役所の三大領主)はチベットのほとんどの耕地、牧場、森林および大部分の家畜、農具を擁していた。他方、人口の95%を占める農奴は耕地、草原など基本的生産手段がないだけでなく、自分の体さえも農奴主に属し、無条件で農奴主のために労役に服し、小作料を納めなければならなかった。現在の50歳以上のチベットの勤労人民は皆自分がかつてだれの奴隷だったかを忘れていない。旧チベットでは、農奴主と農奴の二大等級の限界が非常にはっきりしており、農奴主は農奴を抑圧、搾取、支配する絶対的権威を持っていた。旧チベットで300余年も通用していた「十三法典」と「十六法典」は人を三等九級に分け、貴族、大活仏、高級役人は「上級人」、一般の僧俗・役人、下級将校、上等人の執事は「中等人」、農奴と奴隷は「下等人」と規定していた。「法典」は、上等上級の人の命の価値は同じ重さの金に等しく、下等下級の人の命はわら縄一本の価値しかないと規定した。1950年代になってもチベットは依然として僧俗、領主が吐蕃時期から踏襲してきた厳しい等級抑圧の法律と残酷野蛮な刑法に基づいて支配する社会であった。当時チベット人の寿命はわずか36歳で、人口の非識字率は90%に達していた。
1951年下半期、中国人民解放軍は中央政府とチベット政府が結んだ「チベット平和解放の方法に関する取り決め」(つまり十七ヵ条取り決め)に基づいてチベットに進駐し、チベットの平和解放を実現した。「取り決め」はまず帝国主義の侵略勢力とその影響を完全に一掃すると規定し、さらに「チベットの改革諸事項については、中央は強要しない。チベット地方政府は進んで改革を行い、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法で解決しなければならない」と規定している。こうしてチベットの社会制度は改革しなければならないことが確定された。しかし、具体的実施案はチベットの歴史と現実の特徴、民族の特徴、上層実権派に適した利益が配慮されていた。その目的は改革目標の順調な達成を促すことにあって、人民の利益に合致するものでもあった。1956年、中央はまたチベットで「6年間改革を行わない」という方針を確定した。実際にはこれはチベット上層部に対する今一度の譲歩であり、その目的は彼らの一部のものが自覚するのを待って、平和的改革の目標を達成することにあった。
そのため一定期間、経済面では農奴主の利益は少しも損なわれず、広範な農奴は依然として農奴主のために労役に服し、小作料と利子を納めた。政治面では旧制度がそのまま保存され、チベット政府の各級役人は依然として権力を握り、政務を主管し、案件を判決し、税金を取り立て、ほしいままに農奴を処罰し、ひいては殺害した。国内のその他の地方で普遍的に土地改革が行われ、新民主主義、社会主義の制度が確立された状況と同時に、チベット地方の封建農奴制が存在していたが、これは実際には新中国で一国二制度を実行した最初のケースである。
しかし、チベット上層部の反動グループは根から改革に反対し、人権を人民に与えたがらず、それゆえ「6年間改革を行わない」ことに飽き足りずに「長期間改革せず、永遠に改革しない」とわめきたてた。1958年、国外に逃げた傀儡人民会議分子が印刷、発行した『チベット鏡報』は、チベットの旧制度がこの上なく素晴らしいものであるとおおっぴらに宣伝し、あらゆる平和的あるいは暴力的方法でこの種の制度を守らなければならないとわめきたてた。当時のチベット政府の一部の役人は反乱分子が局地的反乱を行い、チベット駐在の中央機関、部隊を包囲して襲撃したり、国と大衆の財産を略奪したり、罪のない人々をやたらに殺したり、婦人に暴行を働くのを放任、支持した。中央のチベット駐在代表は再三彼らに厳しく警告したが、これらの反動分子はそれに耳を貸さず、あろうことか1959年3月に「17ヵ条取り決め」を公然と破棄し、「チベットの独立」を宣言し、チベット軍にチベット軍区とチベット駐在中央機関を包囲させ、3月20日の払暁にこれらの機関に全面的攻撃を行った。そのため、チベット問題の平和解決の道が塞がれ、「6年間改革を行わない」方針も余儀なく中止された。祖国の統一を守るため中央政府はチベットの反乱を平定する命令を下した。こうして、チベットは反乱平定と改革の新段階に入った。
旧チベットでは、搾取と抑圧に耐えかねて、農奴は何回も反抗し、闘争したが、その都度農奴主の弾圧を受けて失敗に終わった。平和解放後、ますます多くの農奴は、自分の労働で三大領主を養い、チベットのすべての富をつくりだしたのだから自分こそ社会の真の主人公であることを認識した。そのため、彼らは改革を強く要求し、農奴制を徹底的に粉砕し、自分たちが耕していた耕地および自分たちの人身の主権を奪回することを要求した。
チベット自治区準備委員会は1959年6月に第二回全体会議を開いた。この会議には一部の勤労人民代表も参加した。十分な協議を経て、会議は「民主改革に関する決議」を採択した。同「決議」は、チベットの民主改革は平和的方針に基づいて行わなければならないという中央の指示を再確認し、奴隷を解放し、人身従属制度を廃棄すると宣言した。
民主改革の第一歩として、反乱、労役制度、奴隷化に反対し、小作料、利子を減らす運動が繰り広げられた。政策に基づいて、反乱平定において、反乱に参加した領主の土地に対し「耕した者が収穫する」ことを実行し、反乱に参加しなかった領主(とその代理人)の貸し出した土地に対しては小作料を減らすことを実行し、1958年以前に三大領主に対する農奴のすべての債務を取り消し、1959年に反乱に参加しなかった領主から借りた債務の利子を月一部に引き下げた。1959年から1960年にかけての民主改革が基本的に終わった時の統計によると、全自治区で廃棄された高利貸しは食糧に換算すれば約4億㌔に達し、こうして農奴はひどい束縛と抑圧から完全に解除された。
根本的解放を目指す農奴の差し迫った要求を考慮した上で、自治区準備委員会は1959年9月下旬に第三回全体会議を開き、「封建的農奴主土地所有制の廃棄と農民土地所有制の実行に関する決議」を採択し、100万にのぼる農奴の正義の要求を満たし、封建的農奴主土地所有制を廃棄し、農民土地所有制を実行することを決定した。「決議」は、反乱に参加したとしなかったことを限界として、それぞれ農奴主とその代理人の土地とすべての生産手段を没収し、買戻して、農奴と奴隷に分け与えるようと規定している。
土地、家畜、農具を分配する日は、すべての農奴がこれまで経験したことのない喜ばしい記念日であり、貧しい農奴たちは夢にも見なかった土地および自分に属する役牛と農具をもらって大いに喜び、中等の農奴も土地所有権を手に入れ、奴隷たちは住宅、土地、日用品などを分けてもらった。彼らは集まってかつて自分たちを束縛、抑圧した小作料と労役に関する文書および帳簿を焼き払い、狂おしく踊った。1960年末までに農奴と奴隷に分け与えた土地は18万6000㌶で、一人当たり約0.23㌶に達した。
政策に基づいて、反乱に参加しなかった農奴主とその代理人の余分の土地、家畜、農具、住宅に対し買い戻しを行った。中等の市価で買い戻した耕地、家畜、農具、住宅はそれぞれ6万余㌶、82万頭、2万セット、6万4200間であり、政府は8年間ないし13年間に買い戻し金を支払った。反乱に参加しなかった愛国的進歩人士には仕事を与え、そのうち自治区準備委員会で指導ポストについた者もいる。
1961年末、民主改革の基本任務は達成された。
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