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評論  
1959年、チベット武装勢力反乱の真相

 

平和解放前、西蔵(チベット)では上層僧侶と貴族の独占による封建農奴制が敷かれ、膨大な数の農奴は農奴制の足枷が外れることを切実に求めていた。中央人民政府はチベットの歴史と現実的な特殊な状況を考慮し、チベットの社会制度を改革する上で極めて慎重な態度を取り、改革の時期はチベットが独自に決定する方針をとった。

しかし、チベットを統治していた上層グループの一部は自らの利益を守ろうと根本から改革に反対し、永久に農奴制を維持しようとしていた。そして、「17カ条協定」を故意に破棄し、祖国分裂活動を激しく展開した。

1952年、1955年、1956年に反乱者は分裂・破壊活動を繰り返し、1957年にはその激しさを増し、反乱武装組織を発足し、「チベット独立」および改革反対のスローガンをかかげ、幹部を虐殺し、交通を封鎖し、中央の派遣機関や部隊を襲撃し、至る所で略奪、人民殺害、婦女暴行を行った。

中央人民政府は民族団結の精神に則り、チベット地方政府が責任を持って反乱分子を処分し、社会の治安を守るよう再三にわたって催促。チベット地方政府のガロン〈高級官僚〉に対して「中央のチベット地区での改革先送りに変更はなく、将来改革を実施する際も平和改革の方針をとるつもりだ」と報告した。しかし、チベット上層は中央のこのような仁義を尽くした態度につけこんできた。

チベットの武装反乱は、始めから海外の反中国勢力の支援を受けてきた。米国のノーマン・C・ホール著「米国とチベットと中国」には、1957年米中央情報局(CIA)がかつてチベット人反乱分子を米国国内で訓練し、チベットに送り返して分裂・破壊活動を指図していたと書かれている。1975年9月5日に香港で出版された「遠東経済評論」には「米国中央情報局のチベットに対する陰謀」として、米国がかつてチベットの反乱分子に大量の武器・弾薬を提供していたことが記載されている。

チベットでは農奴制度をどうにか堅持したい農奴主と国外の反中国勢力が結託し、反乱活動は瞬く間に蔓延した。1959年3月10日にラサで発生した大規模な武装反乱は入念に画策して引起されたものだ。

ダライ・ラマは2月7日、チベット軍区のトウ少東・副司令員らに「チベット軍区文化芸術工作団が内陸部で学んできた舞台はすばらしいものだと聞いた。私も一度観てみたい。その手配をお願いできますか」と自ら要求してきた。トウ副指令員らは即座に快諾、都合のいい時間と場所を確認したところ、ダライ・ラマは3月8日、10日午後3時にチベット軍区の講堂で舞台を観るといい、チベット軍区側は接待の準備を周到に行った。

にもかかわらず、拉薩墨本(市長)は3月9日夜、「ダライ・ラマが明日、軍区の宴会に出席し、舞台を観ることになった。漢人は飛行機を準備し、ダライ・ラマを北京に連行するつもりだ。どの家庭からも人を出して、ダライ・ラマの住むノルブリンカに舞台を観に行かないよう陳情しよう」と市民を煽り、翌日朝、2千人以上がノルブリンカに集まった。そこでさらに「軍区はダライ・ラマを毒殺するつもりだ」というデマを流し、「チベット独立」「漢人出ていけ」のスローガンを叫んだ。

反乱分子はその現場で、退任したチベット地方政府のガルンや、当時チベット軍区の副司令員だった桑頗・才旺仁増氏を殴打し、さらに自治区準備委員会委員だった堪窮巴拉・索朗降措氏を石で打ち殺し、その死体を市中まで馬に引きずらせてみせしめにした。その後、反乱の指導者はいわゆる「人民代表会議」「チベット独立国人民会議」を次々と開き、反乱武装勢力の組織と拡大に努めた。

ノルブリンカは反乱分子の監視下に置かれ、ダライ・ラマとの連絡は困難を極めたが、中央の譚冠三・代理代表はなんとか愛国人士を通じて3月10日と11日、15日にダライ・ラマに宛てて3通の手紙を出した。譚冠三氏は手紙の中で、ダライ・ラマの立場に理解を示し、彼の安全を気遣うとともに、チベット地方政府に反乱分子の荒れ狂った軍事挑発を直ちに制止するよう要求した。ダライ・ラマも3月11日、12日、16日に譚冠三氏にそれぞれ3通の返事を出した。その中には、「反動的な分子らが私の安全を守ることを口実に、私に危害を加える活動を行っている。私はこれを抑えようと八方に手を尽くしている」「反動グループの違法行為は、私にとって悲しい限りだ・・・私の安全を守るという名目で発生した、中央と地方の関係を引き離す深刻な事件に対し、私はあらゆる手を尽くして処理にあたっている」と書かれていた。16 日の手紙には、地方政府の官僚らを「教育」し、「厳しく責任を問うた」とし、数日後には軍区に赴く意向を打ち明けた。このダライ・ラマが自ら綴った三通の手紙の原本を、かつて新華社の記者が撮影し、その写真は公開されている。

しかし、3月 17日夜、ダライ・ラマはガルンの索康、柳霞、夏蘇などの反乱の指導者に脅迫されてラサを逃げ出し、反乱武装勢力の「根拠地」である山南に向かった。その後、反乱が失敗し、再びインドに逃げた。

ダライ・ラマがラサを去った後、反乱分子は約7千人集め、3月20日明け方に党・政府・軍の機関に向けて全面攻撃を開始。人民解放軍はやむなく、当日午前10時に命令を受けて反撃した。愛国心あるチベット族の僧侶や人民の支援により、わずか2日間でラサ市の反乱は徹底的に平定。その後、反乱分子が長期的な拠点としていた山南地区でも反乱を平定、他の地域に波及していた反乱武装勢力も相次ぎ崩壊した。平定の過程で、人民解放軍の軍紀は厳正で、多くの僧侶らから真摯な擁護を受けた。

「人民網日本語版」2009年3月12日

 

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