確かに、1970年に永聯村ができた時には、わずか254世帯、700人余りしかおらず、面積も約53ヘクタール足らずで、当時沙洲県(後に張家港市に改名)で人口が最も少なく、土地面積が最も小さく、経済実力が最も弱い行政村だった。
永聯村農民集中住宅区
生計を立てるため、張さんは山東省で2年間塗装工として働いたことがある。だが結果は、そうやって働いてもお金にならないし家の世話もできないと気づいた。その後、村に鉄圧延工場ができると聞いた張さんは、ためらうことなく村に帰ることを決めた。
それが1984年のことだ。村共産党委員会の呉棟材書記は「産業がなければ豊かになれない」という信念を固めた。呉書記は、改革開放で農民の暮らしはよくなり、農民にとって一番大事なのは家を建てることであり、それには大量の鋼材が必要だと考え、村で鉄圧延工場を集団化経営することを決めた。1985年、多くの困難を克服し、永聯村は6000トン余りの建築鋼材を生産し、利益は1024万元に達した。永聯村は債務を完済し、完全に貧困から脱しただけでなく、全県の十大富裕村の仲間入りまで果たした。
毎週、張さんは村のスーパーマーケットか自由市場に野菜や果物、米や小麦粉、油を買いに行くが、これらはほとんど村の農業拠点で生産されたものだ。以前は、張さんも自分の土地を所有し、穀物を作っていた。「この土地の生産性は低く、しかも高い農業税も払わなければならず、一年でいくらにもならなかった」。だから村が毎年1ムー(1ムーは6.667アール)当たり1300元の土地有償補償金を出して村民が持つ土地を村集団企業に「流転」(土地請負経営権の移転)し、農業拠点を集中的に発展させ、機械化し集約化した大規模栽培をやると決めた時には、張さんは喜んで賛成した。
川沿いに建てられた永聯小鎮
それだけではなく、スーパーマーケットや病院、電子閲覧室やコミュニティーサービスセンター、そして文化活動センターや「愛心互助街」(村民どうしの助け合いで運営される商店や教室、娯楽施設などを集めた通り)に至るまで、張さんは村から出なくても都市住民とほとんど変わらない文化生活施設を利用することができる。「都市住民が持っているものはすべて作る。都市住民にないものも作る」。呉棟材書記が当時村民に約束したこの言葉を、張さんは記者に誇らしげに語った。そして今、この公約はほぼ現実になっている。
張さんは自分の収入明細を見せてくれた。毎月600元の養老補助金のほか、毎年1ムー当たり1300元の土地収用補助金、1000元の「家庭文明賞」賞金、その他各種都市保険も受領できる。最も重要なのはかつて村が経営していた永鋼集団の配当金(現在は村と企業は分離されている。村集団は永鋼の株式25%を保有)で、1年でおよそ約2万元の収入になる。
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