1986年まで、呉さんのロボットは1つも成功しなかった。内心、焦ってはいたが、彼はずっと諦めることはなかった。昼間はセメント工場で機械修理の仕事をし、残りの時間をすべてロボットの研究とその他の実用機械の開発に使った。
彼は野良仕事が好きではないが、彼の発明は農繁期にその腕前を発揮する。改革開放の初期、農村における機械化の程度はおしなべて低く、主に人手と家畜に頼って農作業を行っていた。人手不足のために呉さんは父親の求めに応じて兄たちと一緒に野良仕事をした。だが、1日もしないうちに彼は、機械方面の自分の特徴をいかに活用して仕事の効率をあげるかを考え始めていた。3日後、彼が発明した多機能種まき・施肥自転車がお目見えした。1台の自転車を使って1人で4人分の仕事をこなせるというものだ。噂が噂を呼び、ご近所さんたちはみなその自転車を借りに来た。近隣の村の人々までも噂を聞いて駆けつけた。小さな発明が隣近所に福をもたらしたことで呉さんの心には達成感と満足感が湧き上がると同時に、発明に対する情熱も大いにかき立てられた。
ずっと1人で楽しんで機械をつくってきた呉さんは02年末、ニュースの主役になり、国内外のメディアから注目され始めた。03年、彼は湖南衛星テレビが主催する「全国発明の星大賞」に参加し、1等賞を獲得したのだ。これ以後、彼はあちこちで「農民発明家」と言われるようになった。
有名人の悩み
呉さんがロボットをつくったのは純粋に興味からで、知識を財産に転化しようと思ったことは1度もなかった。湖南衛星テレビのコンテストに参加して獲得した1万元の賞金は、20年余りロボットをつくり続けてきた彼が初めて手にした報酬であったと同時に、彼の考え方を変えるものでもあった。
自分には家族を養うというプレッシャーがある、と率直に言う呉さんは、「現実の生活問題を考えなくてはならない。一家4人がすべて私の収入に頼っている以上、支出ばかりで収入がないという状態ではいられない」と話す。
生活に迫られて、呉さんは1本腕の呉5号を改良したスーパー呉5号を3万元で売り払った。「それは2本の人の手を模したもので、関節を自由に動かせる。これは設計に2カ月かけた成果。お茶をつぐことだけでなく、字を書くことも、二胡を引くこともできるんだ」。売ってしまった「わが子」に話が及ぶと、呉さんは残念そうだが得意気な顔でこう語った。

完成品を置いてある部屋でとんぼ返りのできるロボットを見せる呉さん(写真・石剛)
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