林 国本
中国は今年の夏、何度か水害や台風に見舞われたが、予測技術の発達や地方のトップたちの努力で、人的被害はかなり小さなものとなった。
調和社会、人間本位ということが提起されるようになってからは、地方の県、郷クラスのトップも、こういうことはおろそかにできず、県民や市民の生活を真剣になって重要課題として取り組むことになった。とにかく、もしも取り組み上ミスがあれば、ポストからはずされることさえ覚悟しなければならなくなった。中国の社会もそれだけ進歩したことを示すもので、筆者も市民の一人として一応満足している。なぜ、あえて「一応」という表現を使うのか。つまり、われわれがずっとコンセプトとしてかがげていることとは、まだギャップがあるといいたいからだ。十年ぐらい前のことだが、水害の最前線に詰めていた郷クラスの幹部が、まあひと休みにと、テントの中で、マージャンをやっているところをメディアに取り上げられて失職したという記事が新聞の片すみに掲載されていたのを覚えている。メディアや国民の目がますます厳しくなっている今日、なおさら真剣に取り組む必要があろう。いや、メディアや国民の目が光っていなくても、社会の公僕たるものはそうすべきである。
日本のような経済大国ですら、台風や水害で、ごく少数であるが人的被害が出ている。ラジオの「国際放送」では、ほとんどの放送時間を各地の台風、水害の報道に割いており、国際ニュースに興味をもつ私にとっては、直接関係はないので(被害者のみなさん、ごめんなさい)、もうすこし国際ニュースの時間を残してほしいのに、と思うこともあるのだが、放送局にとっては、「天下の公器」としてそれは当然のことかもしれない。
前置きは、これまでにして、この辺で本題「真夏の夢」のような話に入りたいが、今年、淮河流域で大洪水が発生し、さいきん、予測技術と対応技術の発達のおかげで、人的被害は最低限に抑えられた。そして、手品に近い対応技術に感心しつづけたことも覚えている。とにかく、ネットワーク化されたダム等を弾力的に操作して、タイムリーに水門を開いてこっちの水をあっちに流し、あっちの水をこっちに流す、という芸当を演じているのをテレビの画面を通して見た訳だが、ではここでひとつ夢物語のようなことを書いて見たい。中国の古代には、禹という治水で名をなした偉人がいた、という伝説がある。また、「愚公、山を移す」という寓話もある。それならば、「よく暴れる竜」といわれてきた淮河の水を、水不足に悩むお隣りの河南省に上手に、人的被害を出すことなく流してはどうか。今日の土木工学のレベルでは、予算さえつけば朝飯前のことと言ってもよい。隋の煬帝の頃に煬帝は長江以南への巡辛のために、今の北京から杭州までの運河を掘削させた。今では華北の水不足の解決のために、長江から水を引くプロジェクトの一部完工も近い、と言われている。淮河のあの大洪水を海に捨ててしまうのは、気候の変動と水不足の懸念にさらされる中国にとっては、なんともったいない話。河南省は中国の穀倉地帯のひとつであり、そこへ大用水路を一本か二本、大遊水地帯を十カ所ぐらいつくり、「よく暴れる竜」をそちら「ご案内」してはどうか。
食糧安全のため、いくつかの大食糧基地をつくるという話も浮上している。長江三峡プロジェクト、青海――チベット鉄道という難工事を完逐した中国の建設者たちにとっては、大いに意義のある次の仕事ではないか。私は土木工学の素人であるので、こういう「真夏の夜の夢」を見ているのかもしれないが、やがて、地下のトンネルや大水路を経由し、長江とか、陜西省を源とし、湖北省で長江に流れ込む漢江の水を飲む時代が来る、という北京市民の一人として、安徽省の省民を数百年も悩ませてきた「よく暴れる竜」をお隣の河南省に引っぱり込んで、干ばつによく見舞われる中国の穀倉河南省の土地を潤すことも、夢物語ではないような気がするが。いかがなものだろうか。
「北京週報日本語版」 2007年12月19日 |