◇プロのサッカー、野球でも誤審◇
失敗はプロの世界でも多々ある。今年6月に行われたサッカーのワールドカップ南アフリカ大会では、ゴールかノーゴールかでいくつかの“誤審”が相次いだ。審判の判断とVTRの映像が違っていたのだ。
同月の米野球大リーグでも、“世紀の誤審”が出た。打者を1人も塁に出さずに勝つ「完全試合」まであと1人のところで、一塁の塁審はアウトと判定した。ビデオをみると明らかにセーフであり誤審だった。140年の歴史のある米大リーグで完全試合は20回あるだけだ。誤審をした塁審は54歳。審判歴22年のベテランである。リプレイのビデオを見て、誤審だったことを自分で認め、翌日の試合前、観衆の見ている前で、泣きながら投手に謝った。投手も悔しさを抑え、「誰でも間違いはある。完全な人間などいない」と応じた。誤審の判定は覆らず、「完全試合」は成立しなかった。
プロの世界でベテランの審判が、自分の誤審を認め観衆の前で陳謝する潔さ。誤審の被害者の投手もこれを受け入れる心の広さ。誤審と判明しても一度下された判定は覆されないルールの厳粛さ。「記録に残らなかったために長く記憶に残るだろう」(6月8日、朝日新聞天声人語)、と日本のメディアも称賛した清々しいフェアプレーだった。
◇漱石やプロ棋士にも失敗◇
失敗はスポーツ界だけではない。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などで有名なあの夏目漱石は、英語の教師をしていた時、官費で英国に留学派遣された。しかし、ロンドンでは自分の英語がほとんど通用せず、相手の英語もあまり聴きとることができなかったため、終日アパートに閉じこもっていた。この留学の失敗の後に、見失っていた自分を見つけ素晴らしい作品を次々と発表した。(「失敗の教科書」宮下裕介著、扶桑社)
日本の将棋界で1996年、史上初の7大タイトルを独占し7冠王となった棋士・羽生善治さんにも大きな失敗経験がある。7冠王の後のタイトル戦で羽生さんは、自分が次に指すと勝ちになる手をうっかり見落とし、負けてしまった。日本の全部のタイトル戦を制覇した超一流の棋士でもこんなミスがある。「失敗を恐れ、リスクばかりに目が入ってしまうと、新しいことに挑戦できなくなってしまう」ことを羽生さんは熟知している、という。(同)将棋名人戦を主催する新聞社の記者として、私は羽生さんを身近に取材したことがあるが、ミスや失敗に全く動揺することなく対応していたことに驚き不思議に思った。自分がミスをすることも読みの中に入っていたのだろう。
だとすれば、失敗やミスを前提にして物事に対処すれば、その時になって慌ててたり、悲観したりすることはない。プロの世界でも、超一流の人でも、どんな時でも人間には必ず間違いや失敗がある。必要なのはその失敗から何を学び、どのように乗り越えるか。そのことがより大切なことなのだ。人生80年とすれば、学生時代はまだ4分の1が過ぎただけだ。これからまだ60年間の余裕がある。どんと来い、ミスや失敗。さあ、新しい学年の新学期だ。未来を見つめ、可能性を信じ、前進しよう。(写真は日本語歌謡大会で筆者写す)
「北京週報日本語版」2010年9月6日
|