(~ウェンナン先生行状記~)
南京大学日本語学部専家・斎藤文男
南京市内で今年も例年どおり桜が開花した。学生は羽毛が生えそろった野鳥のように毎年、巣立ち、卒業していく。そのあとに新入生が交代して入学する。年々歳々学生は代わっても、歳々年々桜の花は同じように開花する。南京大学鼓楼キャンパスの桜が満開となり、漫ろ歩く学生たちが桜の花をバックに記念写真を撮るのは、毎春見られる光景だ。桜の下のベンチでは、春のやわらかな日差しを背に受けながら、来し方行く末を話し合うお年寄りの姿もある。「写作」の授業で出題した「桜」のテーマには、「1週間あまり開花するために、1年間のエネルギーをこの時発散させ、潔く散る姿は、日本の民族性を象徴している。」と指摘する学生がいた。中国で桜の花への理解が深まることは、日中関係の未来にとっても有益になると思う。
満開となった桜の花の下で、漫ろ歩きながら桜の花を写真におさめる学生たち(南京大学鼓楼校舎で)
◇日本の桜を思い出す◇
毎年、南京で桜の季節になると、やはり日本の桜のことを思い出す。埼玉県の自宅近くにある川の堤に植えられた桜並木の開花は、この時季に帰国することが出来ず、ここ10数年来見ていない。葉桜になったころに帰国して開花した姿を想像するしかない。
東京本社に勤務していたころ、近くにある千鳥ケ淵公園では、“香雲”と呼ぶにふさわしい桜並木が見事だった。上野公園の雑踏の中の桜は、落語の「花見酒」を思い起こさせる賑わいだ。花見客に酒を売ってひと儲けしようと、酒樽を担いで出かけた二人が、元手の一杯分のお金で互いに売ったり買ったりしているうち、花見の場所に着いたときに酒は“完売”。残っているのは元手の一杯分のお金しかなかった、というオチである。地球温暖化で各国の利害を押し付け合っているうち、地球全体を駄目にしてしまうようなことを連想させる落語でもある。
新宿御苑の地面一帯に舞い散った花びらは、淡いピンクの絨毯を敷き詰めたようで、踏んで歩くのは申し訳ない感じだった。
「桜並木に花咲きそろい……」と校歌にもなっていた中学校への通学途中にあった桜並木では、あまりの美しさに同じ個所を何回も歩いているうちに遅刻したこともあった。小学校入学した時、校門脇にあった大きな桜の木が枝一杯に花をつけていたことなども思い出す。
日本の桜の季節に海外に滞在していると、何か忘れ物をしたような感じになる。しかし、日中交流が年々盛んになるにつれ、桜の苗木も中国各地に植えられ友好の足跡となって増えている。南京大学構内にも植えられている桜が、毎年鮮やかに開花するのを見ると、忘れ物が見つかってほっとしたような感じになる。
|