中国の領土である釣魚島を奪取したという不名誉な歴史は、日本の公式文書の記載からもはっきりと見て取れる。
日本の外務省が編纂した『日本外交文書』第十八巻によると、1885年9月から11月にかけて、明治政府は三回人員を派遣して秘密調査を行ったが、釣魚島とそれに付属する島嶼は無主の地ではなく中国に属することが様々な側面から証明された結果となった。
【第一回調査結果】1885年9月22日に沖縄県令(後の知事)の西村捨三は日本内務省の命令を受けて調査を行った後、次のように述べている。「本県ト清国福州間ニ散在セル無人島取調之義ニ付先般在京森本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依り取調致候処概略別紙ノ通ニ有之候仰モ久米赤嶋久場嶋及魚釣島(注:「久米赤嶋」は中国で言う赤尾嶼、「久場嶋」は黄尾島、「魚釣島」は釣魚島のこと)ハ古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテシカモ本県所轄ノ久米宮古八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ沖縄県下ニ属セラルルモ敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ中山傳信録ニ記載セル釣魚台黄尾嶼赤尾嶼ト同一ナルモノニ無之哉ノ疑ナキ能ハス果シテ同一ナルトキハ既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラス夫々名称ヲモ附シ琉球航海ノ目標ト為セシ事明カナリ依テ今回大東島同様踏査直ニ国標取建候モ如何ト懸念仕候」(【日】日本外務省編纂『日本外交文書』第十八巻版図関係雑件、日本国際連合協会発行、東京、1950年12月31日、574頁)。これは少なくとも、これらの島嶼が中国の領土である可能性があることを日本の沖縄県が当時確認しており、占領行為が中国を刺激することを懸念していたことを示している。
しかし、内務卿の山県有朋はこれに満足せず、再度の調査を要求し、日本の「国標」を建てようとした。山県の言う主な理由とは、これらの島嶼に「清国に属する痕跡が見つからなかった」(現在も日本は依然としてこの誤った主張を釣魚島占有の口実として用い続けている)というものであった。しかし再調査の結果を受けて、日本側は軽挙妄動に出ることをやめた。日本のこうした動向を当時中国の新聞界がすでに警戒していたからだ。1885年9月6日(清光緒十一年七月二十八日)『申報』の「台島警信」は「台湾の東北の海島に最近日本人が日本の旗をかかげ、島を占拠する勢いである」と指摘し、清政府に注意を喚起している。明治政府も後ろめたさを感じていたのだろう。釣魚島を占有すべく秘密裏に島への上陸調査を急ぐ一方で、中国の新聞報道などを通して中国側の反応を注意深く見守っていた。
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