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釣魚島問題について  
釣魚島問題について(一)

1996年10月18日付 「人民日報」第8面 作者:鐘厳

釣魚島(日本名:尖閣諸島)問題は、中日間で未解決の領土問題である。本文では、歴史や国際法の角度から釣魚島の主権問題を論じる。

一、 釣魚島は古来より中国の領土

釣魚島とその周辺の島々は、台湾省基隆市の北東約92海里(1海里=1.852キロ)にある。日本の琉球列島からは約73海里の距離にあるが、深い海溝で隔てられている。釣魚島列島は釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島および3つの小さなサンゴ礁からなり、総面積は約6.3平方キロメートル。その中で最大の釣魚島は面積4.3平方キロメートルで、海抜は約362メートル。同島は、南東側が漁具の「やす(魚かぎ)」のように切り立った岩壁で、東側には岩肌が塔のように聳えており、長い間無人島となっている。

中国では早くも明代の歴史文献に釣魚島が登場する。日本は釣魚島を沖縄県の管轄としているが、その沖縄県は今から約125年前は独立した琉球国であった。1871年の日本による琉球併合の前から、中国は琉球国と約500年にわたる友好交流の歴史があり、最初に釣魚島などの島を発見、命名している。明の永楽元年(1403年)の書物『順風相送』には「釣魚嶼」と記載されている。

中国は明の太祖の時代から琉球国へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球国の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。

十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。

明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黄尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中国の領土として、当時の防衛対象区域に組み込まれていたことがわかる。

その後、1562年の冊封使・郭儒霖の『重編使琉球録』では次のように書かれている。

「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、当時の中国が釣魚島列島の中でも琉球国に最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球国との境界としていたことを、よりはっきりと証明している。

清代に入り、中国と琉球の境界が釣魚島南方の海溝一帯であることは、中国の航海家の常識となっていた。清代の第2次冊封使・汪楫は1683年に琉球へ派遣され『使琉球雑録』を記した。同第5巻では、釣魚島、赤尾嶼を通り過ぎ、海難を防ぐための祭祀を行ったとき、船上の人が、舟が通り過ぎた海溝(当時は「過郊」あるいは「過溝」と呼ばれていた)が「中国と外国との境界」であることを伝えたという。その後、1756年に琉球へ派遣された周煌も、著書の『琉球国志略』第16巻で汪楫と同行者の問答に触れ、「『溝』とは何かを問うたところ、『中国と外国の境界』との答えだった」と記すとともに、「黒水溝」とは「みん(門に虫、福建省)との洋上の境界」であり、海溝を隔てて赤尾嶼から西の釣魚島などの島々はすべて中国の領土であることを裏付けている。

1719年に琉球へ派遣された清朝・康熙帝時代(1661~1722年)の冊封使・徐葆光の『中山傳信録』は、当時の日本や琉球へ非常に大きな影響を与えた。同書は徐葆光が琉球で研究に専念し、琉球の地理学者や王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大変緻密で信用度も高い。同書は和訳され、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を経て赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある与那国島を「琉球南西の最果ての境界」としている。

上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中国の領土としてきた。甲午戦争(日清戦争)の1年前にあたる清代光緒19年(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に与え、薬剤の採取地とする詔書を発した。詔書には「盛宣懐が献上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、薬の原料は台湾沖にある釣魚台小島のものである。この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これはとりわけ称賛に値することである。よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐にあたえる」と書かれている。(2)

釣魚島が明代から中国の領土であったとする主張は、中国政府の立場のほか、日本の著名な歴史学者である井上清教授も、厳格かつ真剣な考証の結果導いた結論でもある。井上清氏は1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を発表。同氏は歴史学者として文献を調査し、釣魚島は日本が不法に占拠する前も「無主地」ではなく、中国の領土であったと断定している。井上氏が言うとおり、日本の明治維新(1868年~)前には、日本や琉球では、中国文献以外で釣魚島を言及するものは、1つも見つかっていない。日本で釣魚島が文書に始めて登場するのは、1785年に林子平が著した『三国通覧図説』に添付された「琉球三省と三十六島」の図である。しかし、林子平も清の徐葆光が著した『中山傳信録』を参考に、中国名である「釣魚台」を島名としており、さらに釣魚島と福建省、浙江省を同じ桃色で描いている。一方、久米島は琉球と同じ黄色で示されている。徐葆光は、久米島を「琉球西南方界上鎮山(琉球の西南端にある鎮守の山)」としている。新井君美が1719年に発表した『南島志』には、琉球管轄の36の島々が記載されているが、その中には釣魚島がなく、1875年に出版された『府県改正大日本全図』にも釣魚島はない。さらに、清の北洋大臣・李鴻章が1879年に日本と琉球の帰属を交渉した際、中日両国が琉球は36の島でできていると確認しており、そこには釣魚島などの島々は含まれていない。

向象賢(羽地朝秀)が1650年に発表した、琉球の歴史書『琉球国中山世鑑』もまた、明の冊封使・陳侃の記述を採用しており、久米島は琉球の領土であるが、赤嶼およびこれ以西は琉球の領土ではないとしている。向象賢は当時、琉球の摂政として最も権威のある学者で、その視点は当時の琉球統治者を代表するものである。その後、琉球学者の程順則が1708年に記した『指南広義』では、姑米山(久米島)を「琉球西南界上之鎮山」と称した。つまり国境を鎮守するという意味である。蔡温が1726年に著した『改定中山世譜』などの歴史書でも、琉球に釣魚島は含まれないと書かれている。琉球国が同年康熙帝に献上した『中山世譜』にも釣魚島などの島はない。日本の元国際貿易促進協会常任理事の高橋庄五郎氏は、「釣魚島などの島名は中国が先につけている」としており、「そのうち黄尾嶼、赤尾嶼などの固有名称は明らかに中国名で、台湾に属する花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼などと同じだ」としている。日本には「嶼」という島名がなく、一方で福建省、澎湖列島、台湾省には「嶼」と名づけられた島が29あり、古代地図となるとさらに多い。赤尾嶼は中国の古書には「赤嶼」と書かれているが、これは同島にある岩石と関係しており、島の岩石の色から赤嶼や赤尾嶼と名づけたものと見られる。

日本人の中には、中国で出版された地図にも「尖閣列島」が使用され、「釣魚島」と表記されてないことを理由に、日本の領有権を主張する人がいる。中国のこれまでの地図では、清代に釣魚島が「釣魚台」と表記され、現在でも台湾で引き続き用いられている。日本軍の占領時代に出版された地図の上では、釣魚島は「尖閣列島」への改名を迫られたか、はっきりと表記されていないかである。例えば、当時の上海『申報』が出版した中国『新地図』がこのとおりである。戦後および中華人民共和国成立後の一時期に印刷された中国地図も、一部で引き続き「尖閣列島」の表記が使われるなどの影響を受けている。『中国分省地図』の1956年の第1版と1962年の第2版には、最後に「抗戦時期または解放前の申報の地図を参考にした」との説明が添えられている。中国地図における釣魚島の表記不揃いになってしまったのは、上述の日本軍による中国占領という歴史的原因があったからこそである。これは近代中国が半植民地となった歴史の傷跡でこそあれ、釣魚島なの島に対する日本の領有権を証明しうるものでは決してない。

日本の地図や公文書ではかつて、島の中国名を正式に使用していたことがある。統計によると、1935年から1970年にかけて日本で出版された地図21種類および大百科事典の3分の2に「尖閣列島」の記載がなく、「魚釣島」と記載しているものもあった。日本では釣魚島に属する島々の呼び方は混乱している。日本が最初に呼ぶようになった「尖閣列島」は、沖縄師範学校の黒田岩恒教諭が1900年5月、イギリス人が呼んでいた「尖頭諸島」から名づけたという。日本政府は1921年7月25日、同島の「国有地」編入に際して、赤尾嶼を「大正島」と改称したが、日本政府はこの名称を長い間正式に使用しなかった。第2次世界大戦後に日本が連合国司令部に提出した、海上保安庁水路部の海図は、依然として中国が命名した黄尾嶼、赤尾嶼を使用している。米軍占領下の沖縄県が1969年に発した正式文書や掲示でも、黄尾嶼、赤尾嶼などの島名が使用されている。1969年5月に釣魚島海域に石油が埋蔵されているとの情報が流れると、沖縄県は石油会社から相次ぐ調査申請を受け、同県石垣市長の命令で釣魚島に目印となる杭を建設、黄尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」と再度改称した。

しかし、これら島々の名称は勅令による命名を経ていないため、1972年以前の日本政府は各島の島名を出して領有権を主張せず、漠然と「尖閣列島」または「尖閣群島」と呼んでいた。今日に至るまで、これらの島に中国名を使用している日本地図も依然存在しており、平凡社が1984年に出版した『世界大地図帳』には、はっきり漢字と日本語読みで「魚釣島(うおつりじま)」、「黄尾嶼(こうびしょ)」、「赤尾嶼(せきびしょ)」と表記されている。また、現在日本政府や沖縄県の正式文書でも黄尾嶼、赤尾嶼という呼称を使用している。防衛庁が1995年2月に衆議院予算委員会に提出した「防衛庁資料」でも、中国名の黄尾嶼、赤尾嶼が使用されている。(3)

注:

(1) 陳侃:『使琉球録』 25ページ

(2)『釣魚台群島資料』 香港『明報月刊』1979年5月 87ページ

(3)日本『政治経済総覧』1996年、『前衛』月刊5月臨時増刊、109ページ

「人民網日本語版」2004年4月9日

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