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【シリーズ改革開放40周年】「これから中国はすごくなる!」34年前の一言が変えた人生 生畑目高広さん
本誌記者 勝又あや子  ·   2018-07-06
タグ: 改革開放;青年交流;社会
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われもわれも中国へ

大学卒業後の90年、生畑目さんは総合商社の三井物産に入社。世界中の食べ物を日本に輸入して紹介したいという思いから食品部門への配属を希望したところ、パーム油科に配属になった。最初に手がけたのはパーム油の輸入販売だ。パーム油はスナック菓子の揚げ油など加工食品用や、食品に触れるような工業用製品のコーティング用などに使われる。パーム油産地のマレーシアで、中国人系の取引先を相手に交渉に当たった。中国大陸部と関わる仕事は92年から。台湾の食品メーカー康師傅が天津に工場を建設する際に三井物産が出資した関係で、天津に出張して董事会に出席し、商談で通訳を務めた。 

最初の中国駐在は93年10月からだ。北京に駐在になり、食料全般の業務を見るようになった。93年はちょうど日本が米不足に陥り、米の緊急輸入を初めて行った年だった。生畑目さんは日本から来る米のユーザーや問屋を相手に、中国産米の品質について説明する業務に終われた。激務に加えて接待も多く、赴任から1年足らずで肝炎を患い、やむなく帰国する。 

「戻ってきたら、中国がブームになっていました。『われもわれも中国へ!』という話になっていて、中国に工場を建てる会社が増えた。『世界の工場』だって言われて」。帰国後は企画業務室に籍を置き、蘇州の工業団地への日本メーカー誘致や青島の黄島開発など、日本企業の中国への工場進出を後押しする業務に従事した。まさに改革開放の波に乗ったと言えるだろう。 

原料調達先からマーケットへ

2度目の中国駐在は1998年2月~2002年6月。部長補佐という立場で食品全般の業務を見ることになった。2度目の中国駐在は最初の駐在と比べると仕事の内容が大きく変わったという。「肉や野菜、缶詰など割と単純なものを輸出していただけだったのが、工場を作る投資の話だとか、中国国内で日本の企業が物を売るというような話に変わってきた。ちょうど移行期だった」と生畑目さんは当時を振り返る。北京でロッテのチョコパイ生産、ハルビンで森永の育児粉乳生産、天津でアメリカの食品会社のブロイラー養鶏と加工肉生産、河北省三河で日本のコンビニエンスストアチェーン向け牛肉の生産・加工など、関わった仕事は多い。 

印象に残っている出来事がある。2000年前後くらいに、マレーシアで世界パーム油会議が行われた時のことだ。会議の際、三井物産のトレーダーが「中国のパーム油は今いくらで買えますか?」と質問した。生畑目さんはすかさずこう言った。「何を言っているんですか。中国はもうパーム油の純輸入国ですよ」。その事実をトレーダーは知らなかったのだ。生畑目さんとしては、実際にはすでにマーケットとして伸び始めている中国をまだ原料調達先としか見ていなかった社内の意識を変えるために、「インパクトを出そうと思ってわざとやった」のだが、後で上司から「お前は会議を台無しにした。俺に恥をかかせた。事前にそういう情報は言えよ」と小言を言われたという。 

この件は確かに意識改革をもたらし、新たなビジネス展開につながった。三井物産はアメリカからダイズを日本に輸入して食用油生産に使っていたが、アメリカから中国に輸出し、中国で食用油を生産・販売する方向に転換したのだ。

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