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南京大虐殺の生存者・佘子清さん 自身の体験を伝えて14年
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· 2017-12-13 |
タグ: 南京大虐殺;生存者;社会 | 印刷 |
2017年11月15日、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館が悲しいニュースを発表した。南京大虐殺の生存者・佘子清さんが病気のため、享年84歳で亡くなった。1937年12月に中国侵略日本軍によって引き起こされた南京大虐殺では、30万人以上の中国の無抵抗な一般市民と武器を放棄した兵士が殺戮され、生存者に一生癒えることのない悲しみと痛恨の記憶を残した。80年の月日が流れ、存命の生存者はどんどん少なくなっている。
佘子清さん
佘さんは1934年に3人兄弟の末っ子として南京で生まれ、両親は茶葉、砂糖菓子、タバコを売り生計を立てていた。1937年、中国侵略日本軍が南京城に攻め入り、3歳だった佘さんは姉と兄と共に命からがら逃亡した。幾多の紆余曲折を経て彼らはアメリカ大使館に逃げ込んだが、アメリカ大使館に身を隠したからといって安全が確実に保証されることはなかった。ある時、殺人を犯していた日本兵は門の後ろに隠れている佘さんを見つけ、銃床で佘さんの頭を激しく打った。顔面が血だらけになった佘さんはアメリカ人に助けられ、どうにか難を逃れたが、頭に残った傷痕は一生消えることはなかった。昨年、佘さんはインタビューを受け当時の情景を思い返した際に、悲しみを隠しきれない様子で次のように語った。「あの頃、日本人は中年男性しか殺さないと言われていました。そのため父は一足先に避難して、母と近所の女性らは現地に残り家を守ることを選びました。日本兵があれほど残虐に人を殺し、姦淫、拉致、略奪などの悪の限りを尽くすと、誰が考えたでしょう」。2カ月後に佘さんらが自宅に戻ると、揚州から戻ってきた父としか会えず、母はいなくなっていた。「私たちはすぐに遺体を運んでいた人に母のことを聞きました。すると彼は、母や逃亡しなかった女性たちはとっくに日本兵に殺され、遺体は秦淮河に葬られたと言うのです……」。
1945年、中国は抗日戦争に勝利した。12歳の佘さんは新聞売りとなり、稼ぎを家計の足しにした。1950年、兄は抗米援朝戦争(朝鮮戦争)に参加した。佘さんは軍人の家族として、鉄道システムの仕事が手配され、鉄道職員となった。1958年、南京鉄道局に転勤となり、機関車のディスパッチャーとして1994年に正式に定年退職するまで働いた。
2004年3月1日、愛国主義教育の拠点として、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館は正式に無料で一般開放され、佘さんは最高齢のボランティア解説員となった。参観者に南京大虐殺についてより深く理解してもらうため、佘さんは記念館の「銅版の道」の傍でボランティアを始めたのだ。この「銅版の道」には南京大虐殺の生存者と極東国際軍事裁判に参加した中国人裁判官など222名の歴史的証人の足跡が残されており、その中には佘さんの足跡もある。
他の解説員と異なるのは、佘さんはあの大惨事の目撃者および生存者であり、彼自身が確固たる証拠であったところだ。また自らの体験を盛り込んだ解説は、多くの参観者、特に若者に対して大きな教育的意義を持っていた。時には、佘さんは日本兵に銃床で殴られて出来た頭の傷痕を見せることもあった。日本の民間の友好人士が記念館を訪問した際には、佘さんは彼らのために解説を行い、真実の歴史を伝えた。佘さんは「日本人の多くは平和を愛しています。主に右翼勢力が中日関係と中国人の感情を害してきたのです」と述べた。
閉館日の月曜日を除き、佘さんは晴雨に関係なく毎日解説を行い、「ボランティア解説員はずっと続けたい。命ある限り、この歴史を人々に語り継がなければならない。この歴史は、決して忘れてはならないから」とよく話していた。佘さんは生前、記念館で14年もの間ボランティアとして働き、解説を行った時間は累計で4000時間を超える。
南京市が1987年に初めて南京大虐殺生存者に行った統計によると、記録された生存者は1756名だった。1997年に再度統計を行った時には生存者は1200名となり、2006年には400名あまりへと急激に減少した。現時点で、登録された南京大虐殺の生存者は100名弱となっている。
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