山西省大同市東街路の南に位置する。明洪武25年(1392)に造られた、明の朱元璋13番目の子、朱桂の王府の照壁。高さ8メートル、厚さ2.02メートル、全長25.5メートル。中国で現存する最大の瑠璃の九龍壁である。故宮の九龍壁に比べやや傷ついているが、山崖や海のうねり、水草の文様が画面全体に広がっており、むしろ複雑性や華麗さは失われておらず、覇気が感じられる。仔細に見ると、竜の形態は一つひとつ異なる。壁の前に池がある。そこに映る9頭の竜の倒影はまるで活きているようであり、創意に満ちている。
史書の記載によると、闖王李は大同を攻め落とした後、代王府を焼き払い、唯一残ったのが、この九龍照壁だと言われる。
九龍壁の由来については、興味をそそる伝説がある。明朝開国の皇帝である朱元璋は都を定めた後、多くの息子に土地を与えて王とし、中央を護衛させた。13番目の子どもである朱桂は、幼いころから太子にされたが、性格が愚鈍で頑固で、詩文を好まなかった。朱元璋は才と徳のないことを知り、太子の位を廃し、代王にして大同を守らせることにした。代王は大同に来ると、街をのさばり、人を殺す敵がいないことから、暇があれば護衛のための鷹や犬を引き連れ、小南街一帯に行っては面倒を起こしたり、良家の女性をからかったりと、まるで地方のごろつきさながらに振る舞った。代王の妻は大将、徐達の娘で、醜く嫉妬が激しかったことから、二人によって大同は安寧を失い、民は生計を立てることができなくなってしまった。朱元璋は代王の位を廃すると、再び第4子を王位に立てた。代王はこうした状況を知ると、金殿を造ると言い、皇帝になると叫び出した。朱元璋は仕方なく、大同城内で大規模な土木工事を行って宮殿を建造し、代王に皇帝になった気分を味あわせることにした。現在、大同に残る「皇帝街」や「正殿街」「東華門」「大有倉」などの街名はいずれも当時の宮殿の名残である。ある日。代王は北京で4番目の兄の朱棣と会い、食事をした後に王府の外をぶらりとした際、ふと見上げ、門前に新しい瑠璃の九龍壁が造られているのを目にすると、無理を押し通してその図案を大同に持ち帰った。戻ると即、懐仁呉家窯瑠璃匠の父子3人に龍壁を焼成するよう命じた。王妃の徐氏はこれを知ると「北京王府の龍壁より二尺長く、二尺高く、二尺厚く」するよう要求した。こうしたことから、大同の九龍壁は全国で最大、故宮のものさえ及ばないものになったのである。
九龍壁の「竜」はいずれも5つの爪を持つ。一般に王侯の家に彫られる飛ぶ竜は4爪であることが多い。代王は皇帝の隠れた癖を忘れてはいなかったのである。
「北京週報日本語版」2009年5月20日
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