(二一)「文化大革命」」の過程はつぎの三つの段階に分けられる。
一、「文化大革命」の起こされたときから一九六九年四月の中国共産党第九回全国代表大会にいたるまで。一九六六年五月の中央政治局拡大会議と同年八月の八期十一中総の開催が、「文化大革命」の全面的に起こされた目じるしである。この二つの会議は、『五·一六通達』と『プロレタリア文化大革命についての決定』をあいついで採択し、「彭真·羅瑞卿·陸定一·楊尚昆反党集団」なるものと「劉少奇·鄧小平司令部」なるものにたいして誤った闘争をすすめ、党中央指導機構の誤った改組をおこない、「中央文革小組」なるものを設けて、これに中央の権力の大部分をゆだねた。毛沢東同志の左よりの誤った個人的指導が実質的に党中央の集団指導に取ってかわり、毛沢東同志にたいする個人崇拝が熱狂的に鼓吹された。林彪、江青、康生、張春橋といった連中が主として「中央文革小組」の名のもとに、機に乗じて「すべてを打倒し、全面的な内戦をくりひろげる」ようあおり立てた。一九六七年二月前後、譚震林、陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻ら政治局と中央軍事委員会の指導的同志がさまざまな会議で「文化大革命」の誤ったやり方をきびしく批判したが、逆に「二月逆流」ときめつけられて、圧服され、打撃をうけた。朱徳、陳雲両同志も誤った批判をうけた。各部門、各地方の党と政府の指導機構はほとんどが奪権されるか、改組された。人民解放軍を派遣して三支両軍(左派の広範な大衆への支持、工業支援、農業支援、軍事管制、軍事訓練)をやらせたこと―これは当時の混乱した状況からみれば必要なことであり、局面を安定させるうえで積極的な役割を果したが、またいくらかの消極的な結果ももたらした。第九回党大会は「文化大革命」の誤った理論と実践を合法化し、党中央における林彪、江青、康生らの地位を強めることになった。第九回党大会の思想的、政治的、組織的指導方針はいずれも誤ったものである。
二、第九回党大会から一九七三年八月の第十回党大会にいたるまで。一九七〇年から一九七一年にかけて、林彪反革命集団が最高権力を奪取し、反革命武力クーデターをたくらむという陰謀事件が起きた。これは「文化大革命」が党の一連の基本原則をくつがえした結果であり、客観的には「文化大革命」の理論と実践の破たんを宣告するものである。毛沢東、周恩来両同志はこのクーデターをたくみに粉砕した。周恩来同志は毛沢東同志の支持のもとに中央の日常活動を主宰し、各分野の活動に転機をもたらした。一九七二年、林彪を批判するなかで、周恩来同志は極左思潮を批判するという正しい意見を提起した。これは、一九六七年二月前後、中央の多くの指導的同志が「文化大革命」の誤りを是正するよう要求した正しい主張の継続である。だが、毛沢東同志は、当時の任務を依然として「極右」に反対することだと考える誤りを犯した。第十回党大会は第九回党大会の左よりの誤りをうけつぎ、王洪文を党中央副主席のポストにつけた。また、江青、張春橋、姚文元、王洪文が中央政治局で「四人組」を結成し、江青反革命集団の勢力をいっそう強めることになった。
三、第十回党大会から一九七六年十月にいたるまで。一九七四年のはじめ、江青、王洪文らは「批林批孔」運動なるものを起こすよう提案した。これは一部の地方や部門で林彪反革命集団の陰謀活動と関係ある人物や事実を審査、整理したのとは異なり、江青らのホコ先は周恩来同志に向けられていた。毛沢東同志は最初、「批林批孔」運動の展開を承認したが、江青らがその機会に権力奪取の策動をすすめていることに気づくと、かれらをきびしく批判し、かれらは「四人組」であり、江青は党中央の主席になって「組閣」に手をつけようとする野心を持っていると指摘した。一九七五年、周恩来同志が重病に倒れると、鄧小平同志が毛沢東同志の支持のもとに中央の日常活動を主宰することになった。鄧小平同志は軍事委員会拡大会議や工業、農業、交通、科学技術などの問題を解決する一連の重要会議を開いて、多くの分野の活動を整頓したため、情勢があきらかに好転した。だが、毛沢東同志は、鄧小平同志が「文化大革命」の誤りを系統的に是正することを容認できず、またもや「鄧小平を批判し、右からの巻きかえしに反撃する」という運動を起こしたので、全国がふたたび混乱に陥った。一九七六年一月、周恩来同志が逝去した。周恩来同志は党と人民に限りなく忠誠で、ひたすら国のために尽くしたが、「文化大革命」では非常に困難な立場に置かれた。周恩来同志は大局を重んじ、苦労をいとわず、非難にもくじけることがなかった。かれは党と国家の正常な活動をつづけるため、「文化大革命」のもたらす損失をできるだけ減らすため、また党内党外の多くの幹部を守るために、たゆみない努力をはらい、心血をそそいだ。周恩来同志は林彪·江青反革命集団の破壊行為とさまざまな形の闘争をすすめた。その逝去は、全党と全国各民族人民を限りない悲しみに陥れた。この年の四月には、天安門事件をはじめ、周恩来総理を悼み、「四人組」に反対する強い抗議運動が全国的にまき起こった。この運動は、実質的には、鄧小平同志に代表される党の正しい指導を擁護することであり、それはのちに江青反革命集団を粉砕するうえでの偉大な大衆的基礎をきずいた。当時、中央政治局と毛沢東同志は天安門事件の性格について誤った判断をくだし、鄧小平同志を党内党外のすべての職務から解任するという誤りを犯した。一九七六年九月、毛沢東同志が逝去すると、江青反革命集団は党と国家の最高指導権をのっとる陰謀活動に拍車をかけた。同年十月上旬、党中央政治局は党と人民の意志を体して、江青反革命集団を断固粉砕し、「文化大革命」という災難に終止符をうった。これは全党、全軍、全国各民族人民の長期にわたる闘争によってかちとられた偉大な勝利である。江青反革命集団を粉砕する闘争では、華国鋒、葉剣英、李先念らの同志が重要な役割を果たした。
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