建国前二十八年の歴史の回顧
(一)一九二一年の創立いらい、中国共産党はすでに六十年にわたる輝かしい戦闘の過程を経てきた。建国いらい三十二年の党の経験を総括するには、建国以前の二十八年間、党が人民を指導しておしすすめた新民主主義革命の闘争の過程をざっとふりかえってみる必要がある。
(二)中国共産党はマルクス·レーニン主義と中国の労働運動との結合の所産であり、ロシア十月革命とわが国の「五·四」運動の影響のもとに、レーニンの指導するコミンテルンの援助を得て生まれたものである。一九一一年、偉大な革命の先駆者孫中山先生の指導する辛亥革命によって清朝がくつがえされ、二千余年もつづいた封建帝制に終止符が打たれた。だが、中国社会の半植民地·半封建的性格は変わったわけではない。当時の国民党にしても、その他のブルジョアジー、小ブルジョアジーの政治派閥にしても、国家と民族の活路を見出すことはできなかったし、またそれは不可能であった。中国の活路は帝国主義、封建主義の反動的支配を根底からくつがえし、さらに社会主義へと移行することにあると人民に指し示したのは、中国共産党だけである。創立当時、中国共産党はわずか五十余名の党員しかいなかったが、すさまじい勢いの労働運動と広はんな人民大衆の反帝·反封建闘争をすすめ、急速に党勢を拡大して、中国人民のかけがえのない指導勢力となった。
(三)中国共産党は、中国の各民族人民を指導して新民主主義のためにたたかう過程で、国共合作の北伐戦争、土地革命戦争、抗日戦争、全国解放戦争という四つの段階を経てきた。その間、一九二七年と一九三四年との二回にわたり惨敗を喫するという苦しい試練を経たものの、長期にわたる武装闘争と各分野のさまざまな形態の闘争とを緊密に結びつけることによって、一九四九年、ついに革命の勝利をからとったのである。
一九二七年、蔣介石と汪精衛に牛耳られた国民党は、傑出した人物宋慶齢に代表される国民党左派の断固たる反対を無視して、孫中山の決定した国共合作と反帝、反封建の政策にそむき、帝国主義と結託して、共産党員と革命的人民を虐殺した。当時、党はまだ未熟で、陳独秀の右翼投降主義の指導のもとにあったため、強大な敵が突然おそいかかってきたとき、革命は手痛い敗北を喫し、六万余の党員を擁していた党は一万余をあますのみとなったのである。しかし、党は依然としてねばりづよく戦いつづけた。まず、周恩来同志らの指導する南昌蜂起によって、国民党反動派にたいする武力抵抗の火ぶたが切っておとされた。党の「八·七会議」で土地革命と武装蜂起の方針が確定すると、やがて秋収蜂起、広州蜂起、その他多くの地域での蜂起が決行された。毛沢東同志の指導する湖南·江西省境地区での秋収蜂起では、労農革命軍第一師団が編成され、井岡山に最初の農村革命根拠地がうち立てられた。朱徳同志の指導する蜂起部隊もまもなく井岡山に到着して合流した。その後、闘争の発展につれて、党は江西省の中央革命根拠地と湘鄂西(湖南·湖北省西部)、海豊·陸豊、鄂豫皖(湖北·河南·安徽省)、瓊崖(海南島)、閩浙贛(福建·浙江·江西省)、湘鄂贛(湖南·湖北·江西省)、湘贛(湖南·江西省)、左江·右江、川陜(四川·陜西省)、陜甘(陜西·甘粛省)、湘鄂川(湖南·湖北·四川·貴州省)などの根拠地をあいついで樹立し、労農赤軍第一、第二、第四方面軍とその他多くの赤軍部隊を創設した。国民党支配下の白色地区でも、苦しい条件のもとで党とその他の革命組織が強化され、大衆的な革命闘争がくりひろげられた。土地革命戦争では、毛沢東、朱徳同志のみずから指導する赤軍第一方面軍と中央革命根拠地がもっとも重要な役割を果たした。赤軍の各方面軍は国民党軍の再三にわたる「包囲討伐」をつぎつぎと撃ら破った。だが、王明の左翼冒険主義の指導によって五回目の反「包囲討伐」戦争に敗北したため、第一方面軍はやむなく二万五千華里の長征を決行して陜西省北部に転戦し、闘争を堅持していた陜西省北部の赤軍ならびに先に到着していた赤軍第二十五軍と合流した。第二、第四方面軍も前後して長征をおこない、陜西省北部に転戦した。赤軍の主力が撤退したあとの一部南方根拠地では、困難な条件のもとで遊撃戦争が続けられた。王明の左よりの誤りによる敗北のため、革命根拠地と白色地区の革命勢力はきわめて大きな損害をこうむった。赤軍は三十万人から約三万人に減り、共産党員も三十万人から約四万人に減った。
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